カグ

→ 語義
  

香。  
トコヨの木。 =タチバナ
トコヨの道 (=陽陰なる道調の道) を象徴する木。
中央政府ヒタカミのシンボルとなる。
「橘を植える」とは「トコヨの道を布く」ということを意味する。

またマウラが『橘君』となって以降は、「カグ」は 相模国の別名ともなる。
  

【香菓】カクノミ −広辞苑より−
(かおりのよい果実の意)
タチバナの実。かくのみ。

【橘】タチバナ −広辞苑より−
食用柑橘(かんきつ)類の総称。みかんの類。
  

★『from 祭りだ!山車だ!
江戸時代に、簡単に食べられるものを三方に載せたものを食積(くいつみ)といい、賀詞客にふるまった。江戸末期には、単なる飾り物なり、三方に生米を敷き詰め、勝栗・梅干し・蜜柑・干し柿・昆布・橙などを飾ったという。京阪では蓬莱台(ほうらいだい)といい、三方に松竹梅を 飾り、白米を敷くこともあり、その上に蜜柑・橙・串柿・昆布・伊勢エビ・などを置く。
  

トコヨ尊 木の実 東に 植えて生む ハコクニの尊 ヒタカミの タカマに纏る ミナカヌシ2文
タチハナ 植えて 生む御子の タカミムスビを 諸 称ゆ 東のトコタチや』2文
『南の殿に 橘 植えて 橘の宮  東に桜植え 大内宮6文
『"の木 枯れても匂ゆ 萎れても好や 吾が妻合わ  吾が妻合わや 萎れても好や 吾が妻合わ"』7文
ハタレ むせんで 適わして 礫 霰に 飛み 攻める 御方 領巾 着て  入れて 棄ちこぼさせば』8文
枝 しぼみて フトマニの "シチリ" は家漏り 激しくて 西北隅の国 見せしむる』10文
三種の受けを 天に応え に納むる その飾り 八幡あり その翌日 大御宝に 拝ましむ』24文
アスカ川 オオヤマスミは これ写し サカムの小野に 新田成し の木 植えて マウラ守 代々 "橘の君" となる』24文
を求めに タジマモリ トコヨに行けよ 我が思ふ クニトコタチの 御代の木』37文
『明くる春 三月に帰る タジマモリ 研ぎ優ぐ芳ぐ果 二十四篭 橘の木四差 株四差 持ち来たる間に  罷る』37文
『諸も涙で 四本 殿前に植え 株四本 菅原に植ゆ』37文
『先にタジマが 遺し文 "国 染まざれば 橘の木を 得んと思えば 橘の モトヒコが家に 年経りて』39文
『馴染みて巡る ヒタカミと シマツの君に 会ひ知りて やや得てを 引かぬ間に  神となる』39文
『初日より 二陽を和せて  焚き 若女 水汲み 粢餅 ・栗 海菜トコロ 芋頭 親の寄りミ7文
初日祭は ふと環 山の・栗 海の布も トコロ 芋頭 親の節会は 足る睦み』ミ9文

  

  

カグキミ

  
香君。 
カクヤマズミ
の第五子マウラが、アスカ川サガムの小野に写して新田を成し、橘を植えて初代の『カグ君』となって以来、代々この名を名乗る。カグモトヒコもこれ。
  

★川崎の歴史は古い、中でも宮前区有馬から中原区一帯は、いにしえから橘樹(たちばな) と呼ばれる地域で、この橘樹という地名も大変古く、日本書紀の安閑天皇元年(西暦534年)条に、国造の地位をめぐる争いの中で橘花が記述されている程です。橘・立花・橘花・橘樹と長い時間の中でその形を変えながらも、昭和12年の市との合併に至るまで、1500年に及ぶ長いあいだ、その地名は使われてきました。
★後の10世紀頃まで、武蔵国相模国の古代産業として、橘があった事が各資料よりわかっています。また、天平13年に創建されたといわれる武蔵国分寺(国指定史跡) からは、「」と陰刻印などの入った瓦が多数出土しています。その他にも、万葉集では浦島太郎が行った竜宮城は常世と記されていて、神奈川区には今も浦島寺があり、浦島太郎のゆかりの品々や伝説等が残されております。
★川崎市高津区子母口の立花神社(現・橘樹神社)弟橘媛倭建命(日本武尊) の二神が祀られており、富士見台古墳が出来たとの説がある景行天皇三十年の後に拝殿として作られたといわれている。
★日本書紀内・安閑天皇元年に武蔵国橘花が国造の地位をめぐる争いで登場する。
この記述より文献上において武蔵国橘花の名は、実に1500年にも及ぶ長い間使われてきた事が分かる。
★安閑天皇十年、梁の人持参せる仏像を、橘氏を以って武蔵国橘花橘陵に御堂を建立安置せしむ。
  

アスカ川 オオヤマスミは これ写し サカムの小野に 新田成し の木 植えて マウラ守 代々 "橘の君" となる』24文
『遺し文 皇子 見給ひて 橘君が ハナタチバナは が妻 オシヤマ遣りて 呼ばしむる』37文

  

  

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