サカム

→ 語義
  

相模。
アマテル
床酒ハヤコを召してとついだ夜、十握の剣が三つに折れるが、寄り集まって一つにまとまるという夢を見る。そしてタケコ、タキコ、タナコの三つ子の姫が生まれたという。これが相模の語源らしい。
  

神奈川県藤沢市江の島、江島 (エノシマ) 神社
  

『昔   マナヰにありて ミスマルの 珠を濯ぎて タナキネを モチに生ませて』7文
床酒に ハヤコを召せば その夢に 十握の剣 折れ 三割 添かみに交んで 共となる 三人 姫 生む』7文

人成りて オキツ島 サカムヱノ島 イツク島 己からさすらふ7文
タキコ姫 カクヤマツミの 妻となり カコヤマ生みて サカムなる ヱノシマ神と 成りにける』28文
身差し国 相模の国と モトヒコに 名付け賜わる 国つ守39文
タケヒは先に 相模より ヱミシの土産  持ち上り に捧げ 悉く 纏らふ形 申さしむ』39文
『東方へ 行けば相模に 御饗なす マシテシ拝み 泣き曰く " 滅ぼして まみえ得ず"』40文

  

  

サカムノオノ

→ おの
  

相模の小野。 
オオヤマズミマウラは、アスカ川を模してここに新田をなし、の木を植えて、代々「橘の君」となる。 
  

神奈川県厚木市小野、小野 (オノ) 神社
東京都多摩市一ノ宮、小野 (オノ) 神社
  

■サガムのオノの場所については絞りきれていない。かなり広い範囲を指す地名のようだ。
「オノ」は、江ノ島の「ヱノ」の訛とも思え、そうすると「サガムヱノシマ=サガムのオノ」とも考えられる。「サガム」を「ヱノシマ・オノ」の枕詞と考えれば、サガム・ヱノシマ・オノはどれも同一の地域を表す地名なのかもしれない。
  

人成りて オキツ島 サカムヱノ島 イツク島 己からさすらふ7文
アスカ川 オオヤマスミは これ写し サカムの小野に 新田成し の木 植えて マウラ守 代々 "橘の君" となる』24文

  

  

サカムノオノノシロ

  
相模の小野の城。
ヤマトタケヱミシ征伐のとき、オオヤマズミマウラの子孫と思われるタチバナモトヒコは相模の小野に城を構えており、ヱミシの軍の攻撃に備えて、ホツミテシサクラネマシ等と共に城の守りを固めて、ヤマトタケの軍が到着するのを待っていたが、敵は城に火をつける。
ヤマトタケ
ヤグラノ岳(矢倉岳)に登ってサガムのオノ城を遠望し、火の手が上がるのを見て、先ずキビタケヒコの軍を南方の大磯に向けて出発させ、次にオオトモタケヒの軍を大山の北側に巡って裏より入城させ、南北に別れて敵を挟み撃ちに追いつめ戦う。ヤマトタケは白橿の太刀ハラミ山の御神体として『火水の祓い』を宣り、タツタの神を召喚してコノシロ池のタツに城の火を消火させる。

城の場所はホツマの記述から、大山大磯の間と推察される。「あふり山(雨降山)」という別名を持つ、大山の阿夫利神社 (雨乞いで有名) が相模の小野の城跡なのかもしれない。

神奈川県伊勢原市大山、阿夫利 (アフリ) 神社

『軍 下れば ヒタカミが 招くモトヒコ 頷かず 相模の小野に 城 構え テシマシらと 守り固む』39文
相模の小野の 城攻めを 固く守れば 仇輩 四方に焚木を 積み上げて 七十日 日照りに 火攻めなす 乾き燃ゆれば』39文
ヤマトタケ 矢倉の岳に 登り見て キビタケヒコを 大磯へ オオトモタケヒ 大山の 北に回りて 城に入れ 南北に分ちて』39文
ヤマトタケ 髪梳き清め 白橿の 太刀ハラミの 御柱と 祈る火水の 清祓39文
タツタの神の 現れて 熟聳池の の雨 降り火を消せば 宮軍 勇みてを 半ば討つ』39文
碓氷の坂に ヤマトタケ 別れし姫を 思ひつつ 東南を望みて 思ひ遣り 形見の歌見 取り出だし見て』
『"真々し 相模の小野に 燃ゆる日の 火中に立ちて 訪ひし君は"』39文
『これ三度 吾妻あわやと 嘆きます "吾妻" の基や』39文

  

  

サカムノタチ

→ タチ
  

相模の館。
相模国を治める政庁舎、同時にタチバナモトヒコの住居。 =橘の館
  

■厚木市役所の北に「吾妻町」また「妻田」、西には「恩名 (オノの訛か)」という町名があることから、オトタチバナ姫が生まれ育った場所、つまりタチバナモトヒコの館はこの辺りか? 
  

『去年より続き 陽陰晴れて 一月二十八日 み雪降り  ソリに召し 行き到る 相模の館に 入りませば』39文

  

  

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