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一から学ぶ ほつまつたえ講座 第189回 [2024.10.21]
第三五巻 ヒボコ来たる スマイの文 (1)
著者:おあずけ2号 (駒形一登)
著者HP:ホツマツタエ解読ガイド https://gejirin.com
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垂仁天皇ー1-1
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ひぼこきたるすまいのあや (その1)
ヒボコ来たる スマイの文 https://gejirin.com/hotuma35.html
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ひほこきたるすまいのあや
ときあすす むもやそことし ねやゑはる
むつきつあとは をみゑみこ いむなゐそさち としよそふ
あまつひつきお うけつきて いくめいりひこ あまきみと
かさりおたみに おかましむ
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ヒボコ来たる スマイの文
時アスズ 六百八十九年 ネヤヱ春
一月ツアトは ヲミヱ 皇子 斎名ヰソサチ 歳四十二
和つ日月を 受け継ぎて “イクメイリヒコ天君” と
飾りを民に 拝ましむ
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■ヒボコ ■スマイ
本文中で説明します。
■上鈴六百八十九年 (あすずむもやそことし)
上鈴689年は 紀元前29年
に相当し、干支はネヤヱです。 ▶上鈴 ▶干支
■一月ツアトはヲミヱ (むつきつあとはをみゑ)
「ツアト に始まる1月の最初の ヲミヱ の日」
という意で、「1月2日」 にあたります。
■ヰソサチ
ミマキ姫
が生んだ崇神天皇の4男 イクメイリヒコ
の斎名です。 ▶斎名
ここに即位して 第11代 垂仁天皇
となります。
開化天皇 ├──────崇神天皇(ミマキイリヒコ・斎名ヰソニヱ) イカシコメ ┃ ┃ ┌(6)トヨキイリヒコ(斎名シキヒト) ┃ │ オオヒコ───┬ミマキ姫[内宮]──────────┴(7)イクメイリヒコ(斎名ヰソサチ:垂仁天皇) │ ┃ └クニカタ姫[内侍]─────────┬(8)チチツクワ姫 ┃ │ ┃ └(9)イカツル(斎名チヨキネ) ┃ 紀アラカトベ──トオツアヒメクハシ姫[内侍]────┬(1)トヨスキ姫 ┃ │ ┃ └(3)ヤマトヒコ(斎名ヰソキネ) ┃ 近江国造────ヤサカフリイロネ姫[大典侍]────┬(4)ヤサカイリヒコ(斎名オオキネ) ┃ │ ┃ └(5)トチニイリ姫 ┃ 尾張国造────オオアマ姫[中橋]──────────(2)ヌナギ姫
【概意】
ヒボコ来たる スマイの文
時は上鈴689年ネヤヱの春、1日ツアトのヲミヱ1月2日。
皇太子の斎名ヰソサチ42歳は、和つ日月を受け継ぎて
“イクメイリヒコの天君” と、飾りを民に拝ましむ。
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きみうまれつき たたなおく こころほつまに おこりなく
ゆめのしるしに みよのはつ あきあにおくれ ふゆおさめ
ははいまなそこ みうえとし おおははことし ももやそこ
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君 生れ付き ただ直く 心ほつまに 驕り無く
夢のしるしに 御代の初 秋天に遅れ 冬 納め
母いま七十九 御上とし 大母 今年 百八十九
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■直し (なおし) ■心 (こころ) ■ほつま ■おごり (驕り)
■夢のしるしに御代の初 (ゆめのしるしにみよのはつ)
「夢の知らせによって御自身の治世の始まりを得る」
という意です。 ▶しるし
トヨ君と イクメ君とに 御言宣 「汝ら
恵み 等しくて 継ぎ領る事の 夢すべし」
共に湯浴びし 夢なして トヨキ申さく 「ミモロ上に 東に向き八度 矛遊戯し」
イクメ申さく 「ミモロ上に 四方に縄張り 雀
追ふ」 君 この夢を 考えて
「兄が夢
ただ 東向き ホツマ治めよ」 「弟は四方 民を治むる 代嗣なり」 〈ホ34ー2〉
★御代の初 (みよのはつ) ★初御代 (はつみよ)
「御代の始まり・御代の初年」 の意で、初年(はつとし)・初の年(はつのとし)
初暦(はつこよみ)・御代あらたま(みよあらたま)
などともいいます。
この場合は 「垂仁天皇の元年」 を意味します。
■秋天に遅れ冬納め (あきあにおくれふゆおさめ)
「秋の季節に遅れ 冬に納める」 という意ですが、 ▶納む
これは冬の10月11日に、崇神天皇の亡骸を埋葬したことをいいます。
君
言切れて もの言わず ・・・ 御代あらたまの 八月十一日 “神あがり”
とぞ
世に触れて ・・・ 十月十一日に 骸を 山辺に送る 〈ホ34ー4〉
★秋天 (あきあ・あきあめ)
アキ(秋) は アク(上ぐ)
の名詞形で、「あがり・ゴール・終り・還り」
などが原義です。
そのため秋は 「完成・上梓・死者の還し」
などに吉の季節と考えられていたように思います。
ア(天) は アメ(陽陰)
の略で、地上の自然を支配する 「陽陰のシステム」
をいいます。
この場合は 「自然・天然・天気・気象」
と考えていいのではないかと思います。
■母 (はは)
崇神天皇の内宮(=正妃)で、垂仁天皇の母の ミマキ姫
です。
■御上 (みうえ)
御上后(みうえきさき)
の略で、今風に言えば 皇太后(こうたいごう)
です。
■大母 (おおはは)
崇神天皇の母で、垂仁天皇の祖母である イカシコメ
を指します。
ここでは 後に続くべき 「を大御后と」
という文言が省略されています。 ▶大御后
孝元天皇 ├───┬オオヒコ──ミマキ姫 │ │ │ │ └開化天皇 ├───垂仁天皇 ┌ウツシコメ │ │ │ ├────崇神天皇 └ヘソキネ───イカシコメ
【概意】
君の生れ付きはただ直く、心が調和して驕り無く、
夢の知らせにより御代の始まりを得る。
秋天に遅れて冬に父帝の亡骸を納め、
いま79歳の母を御上后とし、また大母 今年189歳 <を大御后と>。
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ふとしきさらき さほひめお うちみやにたつ
にいみやこ うつすまきむき たまきみや
しはすうむみこ ほんつわけ あえものいわす
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二年二月 サホ姫を 内宮に立つ
新都 移すマキムキ タマキ宮
十二月生む御子 ホンツワケ あえもの言わず
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■サホ姫 (さほひめ)
垂仁天皇の 内宮(=正妃・御后・皇后) に立てられます。
ホツマには説明がありませんが、古事記によれば
ヒコヰマス の娘で、
アフミ(近江国造) や タニハチヌシ(丹波道主)
たちの姉妹です。
記紀には 沙本毘売命
/ 狭穂姫命 と記されます。
開化天皇 ├─────────ヒコヰマス オケツ姫[典侍] ├────┬水穂真若王(アフミ)──ヤサカフリイロネ │ ├丹波道主王(タニハチヌシ) ホノススミ─??─アメミカゲ─息長水依比売 ├沙本毘古王 ├沙本毘売命(サホ姫) ├神大根王 └小俣王
■マキムキタマキ宮 (まきむきたまきみや)
垂仁天皇の新都で、日本書紀は 纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
と記します。
奈良県桜井市巻野内(まきのうち)
が伝承地で、JR巻向駅から東北へ300mほどの所に
“垂仁天皇纒向珠城宮跡” の石碑が立ちます。
★マキムキ (▽巻平)
マキ は ミマキ の略で
「改め」 を意味し、ムキ は ムク(平く)
の名詞形と考えます。
ですから 「新たな治め・改めの泰平」
というような意味になるかと思います。
★タマキ (▽尊城・珠城)
タマ(▽尊・珠)+キ(城・▽限)
で、「高き区画・中心の区画・都」 を意味します。
■ホンツワケ
内宮サホ姫 が生んだ垂仁天皇の長男です。
記紀には 本牟智和気命
/ 誉津別命 などと記されます。
崇神天皇 ├────垂仁天皇 ミマキ姫 ┃ ┃ ヒコヰマス──サホ姫[内宮]────(1)ホンツワケ
■あえもの言わず (あえものいわず)
アエ
は打消の語を伴いますと、「〜できない」
の意を主動詞に添えます。
“ヱ(得・能)
〜ズ” と同じです。ここでは
「ものが言えない・口がきけない」 の意となります。
【概意】
垂仁2年2月、サホ姫を内宮(=正妃)に立て、新都をマキムキのタマキ宮に移す。
サホ姫が12月に生む御子ホンツワケは口がきけず。
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みまなより そなかしちして みつきあけ はつみよいわふ
ををんみき たまひたまもの ゐついろの かつみねにしき
あやももは みまなのきみに たまわりて
しほのりひこか のほりたて くににおくれは みちひらく
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ミマナより ソナカシチして 貢上げ 初御代祝ふ
大御酒 賜ひ 賜物 五色の かつみね錦
綾 百機 ミマナの君に 賜わりて
シホノリヒコが 幟立て 国に送れば 道開く
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■ミマナ
■ソナカシチ
崇神天皇の晩年にも使者として来朝しています。
■大御酒 (ををんみき)
「天皇より下される酒」 をいいます。 ▶大御 ▶ミキ(酒)
■かつみね錦 (かつみねにしき)
カツ(▽上つ・勝)+ミネ(峰)+ニシキ(錦)
で、“かぞみね錦”
と同じです。
■百機 (ももは)
ハ(機)
は 織物の枚数を数える単位です。
■シホノリヒコ
ミマナと新羅の間に争いが起った時、ミマナから平定軍の派遣を請われた崇神天皇は、
シホノリヒコ
を司令官として、海を越えて派兵しています。
シラキの仇に 治め得ず ・・・ 「臣
願わくは 国平けの 治人を乞ふのみ」
御言宣 「シホノリヒコを ミマナ治人 往き
外国平く 道司」 〈ホ34-3〉
■幟 (のぼり)
ノボリ(上り) の意で、「上げる物・立てる物・掲げる物」
をいいます。
これにはおそらく 「日本国を示すシンボル」
が描かれていたことでしょう。
やはり 「日の丸・菊の紋・旭日旗」 あたりでしょうか。
■道開く (みちひらく)
新天皇の御代にも 「国交の道は開かれる」
という意でしょう。
【概意】
ミマナよりソナカシチを使者に朝貢して初御代を祝えば、大御酒を賜い、
ミマナの君には五色の極上錦と綾織100枚を賜りて、
シホノリヒコが幟を立てて国に送ってゆけば、あらためて国交の道も開かれる。
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みほはもろすけ とみにめす
むかしひほこか みやけもの はほそあしたか うかかたま
いつしこかたな いつしほこ ひかかみくまの ひもろけす
いてあさのたち このやくさ たしまにおさむ
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三年一月 モロスケ 臣に召す
昔 ヒボコが 土産物 ハホソ・アシタカ・ウカ が珠、
イヅシ小刀、イヅシ矛、ひ鏡、くまのひもろけす、
イデアサの太刀、この八種 但馬に収む
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■三年一月 (みほは)
ミホノハツ(三年の初) の略です。
■モロスケ
ヒボコ の子で、記紀には 多遲摩母呂須玖
/ 但馬諸助 と記されます。
諸杉神社 (もろすぎじんじゃ)
但馬国出石郡。兵庫県豊岡市出石町内町28。
現在の祭神:多遲摩母呂須玖神 (たじまもろすくのかみ)
■ヒボコ(日凹)・アメヒボコ(太陽凹)
ヒ(日)+ボコ(凹・▽没)、アメヒ(太陽)+ボコ(凹・▽没)
で、「日没」 を意味し、
「その方向(=西)から来た者」 を表します。記紀には 天之日矛
/ 天日槍 と記されます。
■ハホソ ■アシタカ ■ウカ
いずれも 「珠」
と思われますが、それぞれの名の意味は不明です。
日本書紀には 葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠
と記されます。
■イヅシ小刀 (いづしこがたな) ■イヅシ矛 (いづしほこ)
日本書紀には 出石の小刀/出石の桙 と記されます。 ▶ホコ
★イヅシ・イツシ (▽出州・▽逸州・出石)
イヅ(▽出・逸)+シ(州)
で、イツ は 「抜け出るさま」 をいいます。
これは タジマ(但馬) の換言なのですが、その理由は37アヤを待たねばなりません。
★刀 (かたな)
カツ(割)+ナ で、ナ は テウナ(手斧)
の “ナ” と同じです。
■ひ鏡 (ひかがみ)
これも意味は不詳ですが、“日鏡”、あるいは “霊鏡”
と考えてます。
日本書紀には 日鏡(ひのかがみ) と記されます。
■くまのひもろけす
クマ の ヒモロケ(▽胙)+ス(▽据)
で、クマの意は不明、ス は スエ(据え)
の短縮です。
「神饌を盛りつける器」 をいうものと思います。
日本書紀には 熊の神籬(くまのひもろき) と記されます。
■イデアサの太刀 (いであさのたち)
日本書紀には 胆狭浅の大刀(いささのたち)
と記されます。 ▶太刀
★イデアサ・イデサ
イヅ(出づ)+アス(▽明す)
の名詞形で、「抜け出て還るさま」 をいい、イデサ
と略します。
これも イヅシ(▽出州)・タジマ(但馬)
の換言で、その意味は37アヤの記で判明します。
■但馬に収む (たじまにおさむ)
「但馬国の宮/都に収める」 ということで、但馬の宮の跡が
“出石神社” です。
★但馬 (たじま)
タ(出)+シマ(州)
で、タ は ダス(出す) の名詞形、イヅ(出)・イデ(出)
の換言です。
出石神社 (いずしじんじゃ)
但馬国出石郡。兵庫県豊岡市出石町宮内99。
現在の祭神:伊豆志八前大神、天日槍命
・伊豆志八前大神は天日槍が将来した8種の神宝。天日槍命を併せ祀る。
【概意】
垂仁3年1月、モロスケを臣に召す。
昔 <その父の> ヒボコの土産物、
ハホソ・アシタカ・ウカ
の珠、イヅシ小刀、イヅシ矛、ひ鏡、くまのひもろけす、イデアサの太刀。
この8種は但馬の宮に収める。
ヒボコが捧げた8種の土産は、垂仁天皇にではなく、先代の崇神天皇に捧げたものです。
ヒボコは崇神天皇の39年に来日していますが、これはツノガアラシトの来日(崇神58年8月)
よりも、19年早いことに留意してください。
瑞籬の 五十八年八月 御幸して 係皇神に 詣でます
諸 斎ふ時 角一つ 有る人
ここに 漂えり 〈ホ34-3〉
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みつかきの みそこひほこは はりまより いたるししあわ
そのときに おおともぬしと なかおいち
はりまにやりて とはしむる
いわくしらきの きみのあこ なはあめひほこ おとちこに
くにおゆつりて やつかれは ひしりのきみに まつろいぬ
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ミツカキの 三十九年 ヒボコは 播磨より 到る宍粟
その時に オオトモヌシと ナガオイチ
播磨に遣りて 問はしむる
曰く 「シラキの 君の上子 名はアメヒボコ 弟チコに
国を譲りて 僕は 聖の君に 服いぬ」
―――――――――――――――――――――――――――――
■ミツカキの三十九年 (みづかきのみそこ)
「磯城ミツカキの宮
を都とする御代の39年」 という意で、「崇神天皇の39年」
の換言です。
■宍粟 (ししあわ)
播磨国の北部の地域で、現在は 兵庫県宍粟(しそう)市
になっています。 ▶地図
シス+アフ(合う) の連結 “シシアフ”
の名詞形で、シス は サス(差す) の変態。
ヒボコ・オオトモヌシ・ナガオイチが 「差し合う所」
が原義と思います。 ▶差し合う
■オオトモヌシ
オオタタネコ
の孫で、オオミワ神の斎主を受け継いだ人物です。 ▶オオミワ神 ▶斎主
日本書紀には 大友主命
と記され、三輪氏/大三輪氏
の祖です。
┌ツミハ─────────クシミカタマ ソサノヲ──オホナムチ──クシヒコ(2代)──コモリ(3代) │ ↓〈養子〉 (初代オオモノヌシ) ├───┴カンタチ─フキネ(4代)─クシミカタマ(5代) スヱツミ─イクタマヨリ姫 │ │ ┌─────────────────────────────────────────┘ │ └アタツクシネ(6代)──タケイイカツ───建甕尻命 ・・・ ・・・ ┐ (食国臣初:以後世襲) タケミカジリ │ │ ┌──────────────────────────────┘ │ └ミケヌシ─オミケヌシ─オオタタネコ─ミケモチ┬オオトモヌシ〈三輪氏祖〉 <失脚・下野> │ └オオカモ(カモスミ)〈賀茂氏祖〉
■ナガオイチ・シナガオイチ
崇神天皇によりオオタタネコがオオミワ神の斎主とされた際、同時に
オオクニタマの斎主とされた人物で、“シナガオイチ”
とも呼ばれます。
オオタタネコを 斎主 オオミワの神 ナガオイチ オオクニタマの 斎主 〈ホ33-2〉
■上子 (あこ)
「上位にある子」 の意で、この場合は 「皇太子」
を意味します。
■チコ
アメヒボコが皇太子の地位を譲った弟の名で、日本書紀は
“知古” と記しています。
後に、ツノガアラシトが治めるミマナ国と敵対関係となるのは、
このチコが治める新羅国だった、ということになります。
チ(小)+コ(子) で、「小さい子・稚児・弟」 の意と考えます。 ▶ちご
■服いぬ (まつろいぬ)
‘ヌ’ は ‘ナリ’ の短縮形で、“まつろふなり”
の換言です。 ▶まつろふ
【概意】
崇神天皇の39年、ヒボコは播磨より宍粟に到る。
時にオオトモヌシとナガオイチを播磨に遣って問わしめれば、
ヒボコの曰く、「我は新羅君の皇太子で、名はアメヒボコ。
弟のチコに国を譲り、僕は聖の君に付き従うなり。」
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つかいかえりて これおつく
よりてはりまの いてさむら あわちししあわ ままにおれ
ひほこもふさく すむところ ゆるしたまはは めくりみん
―――――――――――――――――――――――――――――
使 帰りて これを告ぐ
「選りて播磨の イデサ村 淡路・宍粟 ままに居れ」
ヒボコ申さく 「住む所 許し賜わば 巡り見ん」
―――――――――――――――――――――――――――――
■選る (よる)
■播磨のイデサ村 (はりまのいでさむら)
イデサ村 は、後に但馬国の宮/都になる場所 (=出石)
と思いますが、この時点では
まだ実際には
但馬国は独立しておらず、播磨国の一部として扱われていたようです。 ▶イデサ
なお 日本書紀は 「淡路の出浅邑」 と記しています。
【概意】
使が帰ってこれを君に告げれば
「選びて、播磨のイデサ村、淡路、宍粟 ままに居れ」
と御言宣。
ヒホコ申さく、「住む所、お許し下さるなら巡り見たい」
と。
―――――――――――――――――――――――――――――
きみゆるされは あめひほこ うちかわのほり
あわうみの あなむらにすむ
またさらに わかさめくりて すむたしま
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君 許されば アメヒボコ 宇治川上り
アワ海の 穴村に住む
またさらに ワカサ巡りて 住む但馬
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■宇治川・内川 (うちかわ・うぢかわ)
淀川の上流部の名称で、「内の川・中の川」
を意味します。
現在の淀川を大阪湾の河口からさかのぼりますと、
山崎付近で 北に桂川、中に宇治川、南に木津川
に分れて、
桂川は山背へ、宇治川は琵琶湖へ、木津川は大和へ通じています。
ヒボコは船で 淀川−宇治川 とさかのぼって アワ海(=琵琶湖) に到ります。
■アワ海の穴村 (あわうみのあなむら)
アナ(穴)
は ハナ(端) の変態で、「琵琶湖端の村」
の意に解しています。
現在も 滋賀県草津市穴村町、大津市穴太(あのお)町
などの地名が残ります。
日本書紀には “近江国吾名邑” と記されます。
■ワカサ (若狭)
ワカス の名詞形で、ワカス は ワカツ(分かつ)
の変態です。
根の国 と サホコチタル国
の 「分かつ地・境界の地・間に挟まる地」
の意と考えます。
【概意】
君が許可されると、
アメヒボコは宇治川を上り、アワ海端の村に住む。
またさらにそこから、若狭を巡って但馬に住む。
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ともすえひとは はさまたに のこしいすしま ふとみみか
またおおめとり あめひほこ もろすけおうむ
もろすけは ひならきおうむ ひならきは きよひこおうむ
きよひこは たしまもりうむ
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伴末人は 間手に 残し イスシマ フトミミが
マタオを娶り アメヒホコ モロスケを生む
モロスケは ヒナラキを生む ヒナラキは キヨヒコを生む
キヨヒコは タジマモリ生む
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■伴末人・供末人 (ともすえびと)
「供をするしもべ」 の意と考えます。 ▶しもべ
すえびと【末人】〈広辞苑〉
身分の卑しい人。しものもの。すえのもの。
■間手 (はざまた)
はざま(間)+タ(手・▽方) で、「はさまる所」
が原義です。
この場合は アワ海端から但馬へ向かう 「途中の場所」
をいうか、
あるいは ワカサ(若狭)
の換言かもしれません。
■イスシマ
イス(逸)+シマ(州)
で、後に但馬の宮/都となる、イヅシ(出州・出石)、イデサ村
の換言です。
■フトミミ
この場合は 「イスシマを治める長」
をいいます。日本書紀には 太耳
と記されます。
■マタオ
イスシマフトミミ
の娘の名で、ヒボコの妻となります。日本書紀には 麻多烏
と記されます。
マタフ の名詞形と考えます。マタフ は マトフ(纏ふ)・マトム(纏む)
などの変態です。
つまり 「纏い付く者・妻」 を意味します。
■ヒナラキ ■キヨヒコ ■タジマモリ
ヒナラキ は モロスケの子で、日本書紀には 但馬日楢杵
と記されます。
キヨヒコ は ヒナラキの子で、日本書紀には 清彦
と記されます。
タジマモリ は キヨヒコの子で、日本書紀には 田道間守
と記されますが、「但馬の守」 の意です。
新羅の君─┬───アメヒボコ │ │ └チコ ├モロスケ─ヒラナキ─キヨヒコ─タジマモリ │ イズシマフトミミ──マタオ
【概意】
供の下僕らは途中 (あるいは若狭)
に残して、イスシマの長の娘 マタオ を娶り、
アメヒボコ は モロスケ を生み、モロスケ は ヒナラギ
を生み、
ヒナラギ は キヨヒコ を生み、キヨヒコ は タジマモリ
を生む。
本日は以上です。それではまた!