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一から学ぶ ほつまつたえ講座 第180回 [2024.9.4]

第三二巻 ふじとあわ海 見つの文 (4)

著者:おあずけ2号 (駒形一登)
著者HP:ホツマツタエ解読ガイド https://gejirin.com

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 孝元天皇

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 ふじとあわうみみつのあや (その4)
 ふじとあわ海 見つの文 https://gejirin.com/hotuma32.html
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―――――――――――――――――――――――――――――
 ときあすす ゐもよほむつき そよかきみ
 あまつひつきお うけつきて やまとくにくる あまつきみ
 あめのみまこの ためしなり かさりおたみに おかませて
 みうえきさきと ははおあけ そふのつほねに きさきたつ

―――――――――――――――――――――――――――――
 時 上鈴 五百四年一月 十四日 君
 和つ日月を 受け継ぎて “ヤマトクニクル和つ君”
 陽陰の御孫の例なり 飾りを民に 拝ませて
 御上后と 母を上げ 十二の局に 后立つ

―――――――――――――――――――――――――――――

■上鈴五百四年 (あすずゐもよほ)
上鈴504年は 紀元前214年 に相当し、干支は ツウト です。
これが孝元天皇の元年で、この時60歳です。 ▶上鈴 ▶干支


■ヤマトクニクル和つ君 (やまとくにくるあまつきみ)
ホソ姫 が生んだ 孝霊天皇 の末の男子で、斎名は モトキネ。
ヤマトクニクル は ヤマトネコヒコクニクル の略です。
ここに和つ日月を受け継いで 第8代 孝元天皇 となります。 ▶和つ日月・和つ君

 孝安天皇┐
     ├────孝霊天皇
 オシ姫─┘      ┃
            ┃
 磯城県主オオメ──ホソ姫[内宮]───────(7)ヤマトネコヒコクニクル(斎名モトキネ:孝元天皇) 
            ┃
 春日県主チチハヤ─ヤマカ姫[典侍]
            ┃
 十市県主マソヲ──マシタ姫[中橋]
            ┃
 大和国造─┬───ヤマトクニカ姫[内侍]──┬(1)ヤマトモモソ姫
      │   (ヤマト皇宮侍)     │
      │     ┃       3つ子├(2)ヤマトヰサセリヒコ
      │     ┃         │
      │     ┃         └(3)ヤマトワカヤ姫
      │     ┃
      └───ハエ姫[内侍]──────┬(4)兄ワカタケヒコ
          (若皇宮侍)       │
                    3つ子├(5)ヒコサシマ
                      │
                      └(6)弟ワカタケヒコ


■陽陰の御孫の例 (あめのみまごのためし)
陽陰の御孫の法(あめのみまごののり) と同じです。
「ニニキネのホツマ国時代に生じた典例/慣習」 をいいます。


飾りを民に拝ます (かざりおたみにおがます)

御上后 (みうえきさき)

母を上ぐ (ははおあぐ)
母とは 孝霊天皇の内宮(=正妃)である ホソ姫 です。


十二の局 (そふのつぼね)

后立つ (きさきたつ)

 

【概意】
時 上鈴504年1月14日、
若君は和つ日月を受け継ぎて “ヤマトクニクル和つ君” と。
陽陰の御孫の例とて、飾りを民に拝ませて、母を御上后に上げ、
12人の局と御后を立てる。



―――――――――――――――――――――――――――――
 よとしのやよひ にいみやこ かるさかひはら
 ゐほせみな うちうつしこめ うむみこは
 やまとあえくに おおひこそ
 むほなつきむか いほとみや おもむろおさむ むまさかや

―――――――――――――――――――――――――――――
 四年の三月 新都 軽境原
 五年六月 内(侍)ウツシコメ 生む御子は
 ヤマトアエクニ オオヒコぞ
 六年九月六日 イホト宮 骸 納む ムマサカや

―――――――――――――――――――――――――――――

■軽境原 (かるさかひばら)
孝元天皇の新都です。
現在の 奈良県橿原市大軽町/見瀬町 周辺と伝承されます。
見瀬町の牟佐坐(むさにます)神社 の境内に、軽境原宮阯の碑 が立ちます。

 懿徳天皇の都の 軽曲峡宮 (別名:境岡) と同じ場所なのかもしれません。
 カル(軽) は カシハラ(橿原) の略称ではないかと考えてます。どういうことかというと、
 神武天皇以降は遷都といっても、きわめて狭いレンジの移動なので、神武天皇が造った
 橿原の宮(都・京)の中で、皇宮殿の場所が替わっているだけではないかと思えるのです。


■ウツシコメ
ヤマトネコヒコクニクル(=孝元天皇)の内侍です。 ▶内侍
出自の説明がありませんが、旧事紀によると、先代孝霊天皇のスクネであったオオヤクチの娘で、
ウツシコヲの妹です。記紀には 内色許売命/鬱色謎命 と記されます。 ▶スクネ ▶オオヤクチ

 ニギハヤヒ─ウマシマチ─ヒコユキ┬イツモシコ
                 ├イツシココロ─┬オオミナクチ(孝霊天皇の宿禰)
                 └オオネ臣   └─オオヤクチ(   〃   )─┬ウツシコヲ
                                         └ウツシコメ

  
■ヤマトアエクニ・オオヒコ
ウツシコメが生んだ孝元天皇の長男で、ヤマトアエクニ は通称、オオヒコ は斎名と思います。
記紀には 大毘古命 / 大彦命 と記されます。阿部氏 の先祖です。

 ★ヤマト (和)
 ヤマツ(▽和つ) の名詞形で、ヤマツは ヤワス(和す) の変態。
 この場合は 「まとめる者・統べる者・治める者」 を意味します。
 
 ★アエクニ (▽上国・阿拝国・阿部国) ★アエ (▽上・阿拝・阿部)
 アエ(▽上)+クニ(地・国) の、アエは アフ(▽上ふ・饗ふ) の名詞形で、ウエ(上) の変態。
 アエクニ は 「貴き地/国・アマテル神の国」 を意味し、上野 と同義。後の 伊賀国阿拝郡 です。


 孝霊天皇┐
     ├───────孝元天皇
 ホソ姫─┘         ┃
               ┃
 オオヤクチ───────ウツシコメ[内侍→内宮]──ヤマトアエクニ(斎名オオヒコ)
 (孝霊スクネ)


 敢國神社 (あえくにじんじゃ)
 伊賀国阿拝郡。三重県伊賀市一之宮877。  
 現在の祭神:大彦命、少彦名命、金山媛命
 ・所在地は 少し前までは上野市、古くは伊賀国阿拝(あえ)郡。


イホト宮 (いほとみや)
この場合は 「イホト宮の主」 の意で、
つまり 孝霊76年(=上鈴503年)2月8日に崩御した 孝霊天皇 を指します。


骸 (おもむろ)

■ムマサカ
孝霊天皇の亡骸を納めた地に付けられた名で、崩御後7年半を経ての埋葬です。
日本書紀には 片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ) と記されます。
その場所についての所伝は後世失われ、現在は宮内庁により、
奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目 の丘陵に治定されていますが、おそらく違います。

 ムマ(馬)+サカ(境) で、ムマ(馬) は コマ(駒) の換言と考えます。
 コマは 「回し・送り」 などが原義ですから、「回送の区画」 を意味するものと思います。

 

【概意】
孝元4年3月、軽境原に新都。
孝元5年6月、内侍ウツシコメが生む御子は、ヤマトアエクニ・オオヒコぞ。
孝元6年9月6日、イホト宮の骸を納めるムマサカや。



―――――――――――――――――――――――――――――
 なほきさらふか うつしこめ うちみやとなる
 うつしこを なるけくにとみ
 しわすはつ ひのてにきさき うむみこは
 いむなふとひひ わかやまと ねこひこのみこ

―――――――――――――――――――――――――――――
 七年二月二日 ウツシコメ 内宮となる
 ウツシコヲ なる食国臣
 十二月一日 日の出に后 生む御子は
 斎名フトヒヒ ワカヤマト ネコヒコの御子

―――――――――――――――――――――――――――――

内宮 (うちみや)

■ウツシコヲ
内宮(=御后・皇后)に昇格した ウツシコメ の兄で、孝元天皇の物部系の食国臣となります。
記紀には 内色許男命 / 鬱色雄命 と記されます。

 ニギハヤヒ─ウマシマチ─ヒコユキ┬イツモシコ
                 ├イツシココロ─┬オオミナクチ(孝霊宿禰)
                 └オオネ臣   └─オオヤクチ(  〃  )─┬ウツシコヲ(孝元ケクニ)
                                      └ウツシコメ(孝元内宮)


食国臣 (けくにとみ・けくにをみ)

■后 (きさき)
内宮となった ウツシコメ を指します。

 
■フトヒヒ ■ワカヤマトネコヒコ
内宮ウツシコメの生んだ孝元天皇の2男で、斎名がフトヒヒです。
記紀には 若倭根子日子大毘毘命 / 稚日本根子彦大日日尊 などと記され、後の 開化天皇 です。

 孝霊天皇┐
     ├───────孝元天皇
 ホソ姫─┘         ┃
               ┃
 オオヤクチ───────ウツシコメ[内侍→内宮]─┬(1)ヤマトアエクニ(斎名オオヒコ)
 (孝霊スクネ)                   │
                         └(2)ワカヤマトネコヒコ(斎名フトヒヒ:開化天皇)

 

【概意】
孝元7年2月2日、ウツシコメが内宮となり、ウツシコヲが食国臣となる。
12月1日の日の出に后が生む御子は、斎名フトヒヒ、ワカヤマトネコヒコの御子。



―――――――――――――――――――――――――――――
 こほのなつ あめよそかふり
 やましろた あわうみあふれ さもみもち 
 なけきつくれは みことのり みけぬしをしに いのらしむ

―――――――――――――――――――――――――――――
 九年の夏 雨 四十日降り
 山背田 アワ海あふれ 稲もミモチ
 嘆き告ぐれば 御言宣 ミケヌシ 御使に 祈らしむ

―――――――――――――――――――――――――――――

年 (ほ)

■稲 (さ)
“さなえ” の略で、「植えるもの・植えたもの」 を意味します。 ▶さなえ
この場合は イネ(稲) の苗をいうため、早稲(わ) の “稲” の字を当てています。


ミモチ

■ミケヌシ (神饌主・御食主)
食国臣 の換言で、この時のモノヌシ系の食国臣の通称です。
モノヌシ系の食国臣は タケイイカツ が初代です。
旧事紀は 豊御気主命 / 大御気主命 と記し、両者を親子としていますが、同一人の別名です。

 ソサノヲ────オホナムチ───クシヒコ──コモリ─┬カンタチ──フキネ
 (ヤヱ垣機)  (初代オオモノヌシ)  (2代)   (3代) │      (4代)         
                           └ツミハ──┐
                                 │
  ┌──────────────────────────────┘
  │
   └クシミカタマ─アタツクシネ──タケイイカツ──建甕尻命 ・・・ ・・・ ┐
     (5代)    (6代)    (食国臣初:以後世襲) タケミカジリ       │
                                     │
    ┌─────────────────────────────────┘
   │
   └ミケヌシ


■御使 (をし)
ヲシカ(御使) の略です。

 神武3年の夏にも同じようなことが起り、アメタネコとクシミカタマを
 御使として祈らせていますが、ミケヌシはクシミカタマの子孫です。

  三年の五月雨 四十日降り 疫病はやりて 稲ミモチ
  君に告ぐれば アメタネコ クシミカタマと ヤスカワの 仮屋に祈り 
〈ホ30-3〉

 

【概意】
孝元9年の夏、雨が40日降り続き、山背の田にアワ海があふれて、稲もミモチ。
嘆き告げれば御言宣。ミケヌシを御使として祈らせる。


 次の部分は写本によって2つのバージョンがあり、まずは1つ目です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あわくにみおに たなかかみ はれおいのりて はらひなす
 かせふまつりは おおなむち いつもたなかの ためしもて
 みなつきそむか まつりなす そのをしくさの まもりもて

―――――――――――――――――――――――――――――
 アワ国ミオに 田中神 晴れを祈りて 祓なす
 カセフ纏りは オオナムチ イヅモ田中の 例し以て
 六月十六日 纏りなす その押草の 守りもて

―――――――――――――――――――――――― Ver.1 ――

■アワ国ミオ (あわくにみお)
同義語の連結で、どちらも「中央の国・近江」 を意味します。 ▶アワ国 ▶ミオ


■田中神 (たなかかみ)
「田を和ぐ神・田を和(やわ)し調える神」 の意で、ウケミタマ の換言と考えます。
なお 田中神は伏見稲荷大社の祭神となっています。

 ★田中 (たなか)
 タ(田)+ナカ(中) で、ナカ は ナク(和ぐ・凪ぐ) の名詞形です。
 ですから 「田を和ぐこと・田を慰めること・田を和(やわ)し調えること」 を意味します。

 伏見稲荷大社 (ふしみいなりたいしゃ)
 山城国紀伊郡、稲荷神社。京都府京都市伏見区深草藪ノ内町68。 
 現在の祭神:宇迦之御魂大神
       佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神


■晴れ・治れ (はれ)
ハル(晴る・▽治る) の名詞形で、「直り治まること・調和すること」 が原義です。
この場合は ナオリ(直り) の換言です。


祓 (はらひ)
かつて神武天皇が アメタネコとクシミカタマに行わせた 直りの祓 と同じです。

 “直りの祓” 行えば 疫病も直り 稲 直る 〈ホ30-3〉


カセフ纏り (かせふまつり)

オオナムチ (斎名クシキネ)
かつて 蝕虫 が出雲国を襲った時、オオナムチは シタテル姫 のもとに馳せて、
「押草で煽ぎながら祓いの歌を360回歌う」 という蝕虫の駆除法を習っています。
それを6月16日に出雲で実行したのでしょう。

 稲蝕虫 クシキネ馳せて これを問ふ シタテル姫の 教え種 習い帰りて
 押草に 扇げば蝕の 虫去りて やはり若やぎ 
〈ホ9-6〉

そのゆえか、伏見稲荷大社 の祭神 “田中大神” を オオナムチ とする説があります。
また “サタ” はオオナムチの別名ですので、“佐田彦大神” も オオナムチ かもしれません。

 アユミテル姫に シタテルと サタのタカ姫は タカテルと 授くる 〈ミ逸文〉


■イヅモ田中 (いづもたなか)
「出雲国における田の和ぎ」 という意です。 ▶田中


押草 (をしくさ・おしくさ)

 

【概意】
アワ国ミオにて 田中神に直りを祈って祓をなす。
カセフ纏りは オオナムチが出雲国で行った田和ぎの例を以て、6月16日に纏りをなす。
その押草の守りにより、



  続いてバージョン2です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 あわくにみおに たなかかみ はれおいのりて かせふなす
 これおおなむち たなかのり みなつきそむか おこなひは
 みもむそうたひ おしくさに いたみもなおる まもりもて

―――――――――――――――――――――――――――――
 アワ国ミオに 田中神 晴れを祈りて カセフなす
 これ “オオナムチ田中祈り” 六月十六日 行ひは
 三百六十歌ひ 押草に 傷みも直る 守りもて

―――――――――――――――――――――――― Ver.2 ――

カセフ

■オオナムチ田中祈り (おおなむちたなかのり)
「オオナムチの田を和ぐ祈り」 という意です。

 

【概意】
アワ国ミオにて田中神に晴れを祈ってカセフなす。これ “オオナムチ田中祈り”。
6月16日のその行いは、360回歌いながら押草に煽ぐことにより、傷みも直る守りにより、



――――――――――――――――――――――――――――――――
 たにぬかつけは よみかえり やはりわかやき みつほあつ
 たみかてふゑて にきはえは おほみけぬしの まつりをみ
 なつくそれより やましろも つくしなおりも いつもにも
 いせはなやまも としことに まつるかせふそ

――――――――――――――――――――――――――――――――
 田に額づけば よみがえり やはり若やぎ 瑞穂充つ
 民 糧増えて 賑えば “大御食主の纏り臣” 名づく
 それより 山背も 筑紫直りも 出雲にも
 伊勢・花山も 年毎に纏るカセフぞ

――――――――――――――――――――――――――――――――
  ここは五七調が少々いびつなため、言葉の区切りを調整しています。

■田に額づく (たにぬかづく)
ヌカづく” ことを タヌク(田をぬくめる) に語呂合わせして、
タナカ
(田を和ぐこと) のモノザネとしているようです。 ▶モノザネ


やはり

瑞穂充つ (みづほあつ)
  
■大御食主の纏り臣 (おほみけぬしのまつりをみ)
ミケヌシ が君より賜った尊名です。
オホ(大) は オフ(老ふ) の名詞形で、ここでは 「老・上・親・父」 を意味します。
ミケヌシ(御食主)食国臣 の換言、ですから “大御食主” は 「親の食国臣」 という意です。
マツリヲミ(纏り臣) は 「カセフの纏りを行った臣」 という意です。

 ミケヌシ に オホ(老・大) を冠して “大御食主“ としているのは、オミケヌシと呼ばれる、
 「子のミケヌシ」 と区別するためと思います。親子で食国臣を務めたようです。
 (おそらく タケイイカツ 以来ずっと、世襲で食国臣を務めているものと思います。)


■筑紫直り (つくしなおり)
「九州の “直りの県”」 をいいます。 ▶直りの県

 御幸を乞えば 御代りと 直り中臣 下らしむ 豊の “直りの県” 生る 〈ホ31-5〉


花山 (はなやま)

 

【概意】
田に額づけばよみがえり、元通りに若やいで実りをもたらす。
糧が増えて民も賑えば、“大御食主の纏り臣” と名を授ける。
それよりは 山背も、筑紫の直り県も、出雲も、伊勢も、花山も、年毎に纏るカセフぞ。



―――――――――――――――――――――――――――――
 そひやよひ もちにまたうむ ととひめは ともにみゆきや
 へそきねか やまといけすに みあえなす
 めのいかしこめ かしはてに めすうちきさき ことしそよ

―――――――――――――――――――――――――――――
 十一年三月 十五日にまた生む トト姫は 共に御幸や
 ヘソキネが ヤマトイケスに 御饗なす
 姫のイカシコメ 膳出に 召す内后 今年十四

―――――――――――――――――――――――――――――

■トト姫 (ととひめ)
内宮ウツシコメが生んだ女子で、孝元天皇の3人目の子です。
日本書紀には 倭迹迹姫命 と記されます。

 孝霊天皇┐
     ├───────孝元天皇
 ホソ姫─┘         ┃
               ┃
 オオヤクチ───────ウツシコメ[内侍→内宮]─┬(1)ヤマトアエクニ(斎名オオヒコ)
 (孝霊スクネ)                   │
                         ├(2)ワカヤマトネコヒコ(斎名フトヒヒ:開化天皇)
                         │
                         └(3)トト姫


■ヘソキネ
ホツマに出自の説明はありませんが、日本書紀/旧事紀には 大綜麻杵/大綜杵命 と記され、
オオヤクチ の子、ウツシコメ・ウツシコヲ の兄弟とされます。
ヘソ(臍)+キ(限・城)+ネ(根・主) で、「ヤマトイケスの主」 の意と考えてます。

 ニギハヤヒ─ウマシマチ─ヒコユキ┬イツモシコ
                 ├イツシココロ─┬オオミナクチ
                 └オオネ臣   └オオヤクチ──┬ウツシコヲ(孝元天皇の食国臣)
                                 ├ウツシコメ(孝元天皇の内宮)
                                 └ヘソキネ

 
■ヤマトイケス
ヘソキネの知行地で、池心(ゐけこころ) の換言と考えています。
「葛城の中心部」 の意で、現在は 奈良県御所市池之内 と呼ばれてます。

 ヤマト(和)+イケ(活)+ス(州) で、ヤマトは 「合・間・中・央・内」 の意。
 イケ(活) は 葛(かつら・くず・こせ) の換言、ス(州) は 「区分・区画」 を意味します。
 よってイケスは カツラギ(葛城) の換言と考えます。


御饗 (みあえ)
 
■イカシコメ・イキシコメ
ヘソキネの娘で、孝元天皇の 内后(=内侍) として召されます。
記紀には 伊賀迦色許売命 / 伊香色謎命 と記されます。

 ニギハヤヒ─ウマシマチ─ヒコユキ┬イツモシコ
                 ├イツシココロ─┬オオミナクチ
                 └オオネ臣   └オオヤクチ─┬ウツシコヲ
                                ├ウツシコメ
                                └ヘソキネ─イカシコメ

 イカ/イキ(活)+シコ+メ(女・姫) で、イカ/イキは “イケス” の イケ(活) の変態。
 シコ は シキリ(仕切り) の意。
 ですから イカシコ/イキシコ は イキシ・イケス・カツラギ の換言で、
 「葛城の姫」 を意味します。


膳出 (かしはで)

 

【概意】
孝元11年3月15日に内宮がまた生むトト姫は、君と共に御幸なす。
ヘソキネがヤマトイケスに御饗をなし、姫のイカシコメを膳出とすれば、
君は内后として召す。この年14歳。



―――――――――――――――――――――――――――――
 そみほはつみか いかしこめ うむみこのなは
 おしまこと いむなひこふと
 そよふつき はにやすめうむ はにやすの いむなたけはる
 これかうち あおかきかけか めのおしも なるうちきさき

―――――――――――――――――――――――――――――
 十三年一月三日 イカシコメ 生む御子の名は
 オシマコト 斎名ヒコフト
 十四年七月 ハニヤス姫生む ハニヤスの 斎名タケハル
 これ河内 アオカキカケが 姫の乙下 なる内后

―――――――――――――――――――――――――――――
 
■オシマコト ■ヒコフト
イカシコメ が生んだ孝元天皇の3男で、斎名が ヒコフト です。
記紀には 比古布都押之信命 / 彦太忍信命 と記されます。


河内 (かうち・かわち)

■アオカキカケ
「川の間の区画を治める者」 という意で、語義としては アウヱモロ と同じですが、
アオカキカケ はその子孫でしょう。記紀には 河内の青玉 / 河内の青玉繋 と記されます。

 アオ(▽合・間)+カ(河・川)+キ(城・▽限)+カケ(懸・繋) で、
 アオ は アフ(合ふ) の名詞形、ですから アオカ(合河) は アウヱ(合江) の換言です。
 カケ は カク(懸く) の名詞形で、「合わせ・つなぎ・結び・統べ・治め」 などの意です。
 ですから 「川の間/河内の区画を治める者・河内の県主」 という意です。


■ハニヤス姫 (はにやすめ)
アオカキカケ の娘で、孝元天皇の乙下侍でしたが、男子を生んで内侍に昇格します。
記紀には 波邇夜須毘売 / 埴安媛 と記されます。

 ★ハニヤス (埴安)
 
ハニ(埴)+ヤス(安・▽痩)は 「土地が低いさま・低湿地」 を意味し、
 ヤスカタ(安方・安潟)
の換言です。この場合は “河内” を指します。 ▶河内湾

  
■ハニヤス・ハニヤスヒコ ■タケハル ■タケハニヤス
ハニヤス姫 が生んだ孝元天皇の4男で、斎名がタケハルです。
斎名と合せて タケハニヤス とも呼ばれます。
記紀には 建波邇夜須毘古命 / 武埴安彦・埴安彦 などと記されます。

 孝霊天皇┐
     ├───────孝元天皇
 ホソ姫─┘         ┃
               ┃
 オオヤクチ─┬─────ウツシコメ[内侍→内宮]─┬(1)ヤマトアエクニ(斎名オオヒコ)
 (孝霊スクネ) │       ┃         ├(2)ワカヤマトネコヒコ(斎名フトヒヒ:開化天皇)
       │       ┃         └(3)トト姫
       │       ┃
       └ヘソキネ─イカシコメ[内侍]─────(4)オシマコト(斎名ヒコフト)
               ┃ 
 河内アオカキカケ────ハニヤス姫[乙下→内侍]──(5)ハニヤス(斎名タケハル)

 

【概意】
孝元13年1月3日、イカシコメが生む御子の名は オシマコトの斎名ヒコフト。
孝元14年7月、ハニヤス姫が生む ハニヤスの斎名タケハル。
これ(ハニヤス姫)は、河内のアオカキカケの姫で、乙下侍であったが内后に昇格。



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 ふそふとし むつきそふかに よつきなる
 ふとひひのみこ ことしそむ

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 二十二年 一月十二日に 代嗣なる
 フトヒヒの御子 今年十六

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フトヒヒ

 

【概意】
孝元22年1月12日、フトヒヒが代嗣御子となる。この年16歳。



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 のちおしまこと おうちかと たかちめとうむ うましうち
 これきうつかと やまとかけ めとりうむこは たけうちそ

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 のちオシマコト オウチが妹 タカチ姫と生む ウマシウチ
 これ 紀ウツが妹 ヤマトカケ 娶り生む子は タケウチぞ

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■オウチ
ホツマには説明がありませんが、この時の 葛城国造 のようです。
古事記は 意富那毘 と記し、「尾張連らの祖」 とします。 ▶尾張連


■タカチ姫 (たかちめ)
オウチ の妹で、オシマコト の妻となり、ウマシウチ を生みます。
タカチ は タカシ(高し) の名詞形で、カツラギ(葛城) の換言です。
古事記に 葛城の高千那毘売 と記されます。

 
■ウマシウチ ■ウマシタケヰココロ
オシマコトタカチ姫 を娶って生んだ男子で、記紀には 味師内宿禰 / 甘美内宿禰 と記されます。
“ウマシタケヰココロ” (日本書紀では 屋主忍男武^心命) とも呼ばれます。


■紀ウツ (きうつ) 
「紀の国を打つ(=治む)者」 という意で、「紀の国造」 を意味する個人名です。 ▶打つ
ウチマロ (38アヤ出) の子で、ヤマトカケ の兄です。
他文献には 木国造の宇豆比古 / 紀伊国造宇豆彦 などと記されます。


■ヤマトカケ
紀ウツ の妹で、ウマシウチ の妻となり、タケウチ を生みます。
記紀には 山下影日売 / 影媛 と記されます。


■タケウチ (斎名タカヨシ)
後の タケウチのスクネ で、斎名はタカヨシ。記紀には 建内宿禰 / 武内宿禰 と記されます。
生まれる前から、これほど詳細に出自が語られる人物ですから、その重要性がうかがえます。
タケウチの出自説明は38アヤでもう一度繰り返されます。

 孝元天皇
   ├─────オシマコト
 イカシコメ     │
           ├───ウマシウチ(=ウマシタケヰココロ)
           │      │
 葛城タルミ┬オウチ │      │
      └──タカチ姫     ├───タケウチ
                  │
      紀のウチマロ─┬紀ウツ │
             └─ヤマトカケ姫

 江野神社 (えのじんじゃ)
 越後国頚城郡。新潟県上越市名立区名立大町字明神山1335。
 現在の祭神:建御名方命、事代主命、大己貴命、素佐能男命、稻田比賣命
       屋主忍男武雄心命影姫命武内宿禰命

 

【概意】
後にオシマコトが オウチの妹のタカチ姫と生むウマシウチ。
これが紀ウツの妹のヤマトカケ姫を娶って生む子がタケウチぞ。



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 ゐそななかつき ふかまかる すへらきのとし ももそなそ
 みこのもはいり いきませる ことくみあえし
 よそやすき まつりこときき むとせのち
 おもむろおさむ つるきしま なつきすえよか めともやむなり

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 五十七年九月 二日罷る 皇の歳 百十七ぞ
 皇子の喪入り 生きませる 如くみあえし
 四十八過ぎ 政聞き 六年後
 骸 納む ツルキシマ 九月二十四日 侍・臣も罷むなり

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喪入り (もはいり)

■生きませる如く(いきませるごとく)
生きますの如に”  “生きます如く”  “居ます如くに” などの換言です。


■みあえす (御饗す)
みあえなす” と同じです。


四十八 (よそや)

政・纏り事 (まつりごと)

■ツルキシマ (▽尽霊帰州・剣州)
孝元天皇の亡骸を納めた場所に付けられた名です。
日本書紀は 剣池島上陵 と記し、現在は宮内庁により、
奈良県橿原市石川町 にある 「中山塚1-3号墳」 に治定されています。

 ツルキ(▽尽霊帰)シマ(州) で、「尽きた霊を帰す区画」 の意です。


■侍・臣 (め・と)
メ(侍) は ヰメ(斎侍) の略で、「つぼね・后」 を意味します。 ▶つぼね
ト は トミ(臣) の略です。ここでは 先帝の側近で親しく仕えた 内臣 をいいます。
31アヤでは トミ・メ (臣・侍) と表現しています。

 送る御上の 骸を ハカタの洞に 納むなり 臣・侍の骸も みな納む 〈ホ31-9〉


罷む (やむ)
「おしまいになる・締まる・閉まる・納まる・終る」 などの意です。

 

【概意】
孝元57年9月2日 皇罷る。117歳ぞ。
皇太子は喪に入り、生きませる如くにみあえをなし、48日が過ぎて政を聞く。
6年後の9月24日、ツルキシマに亡骸を納む。后や内臣も終るなり。

 

本日は以上です。それではまた!

 

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