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一から学ぶ ほつまつたえ講座 第177回 [2024.8.23]
第三二巻 ふじとあわ海 見つの文 (1)
著者:おあずけ2号 (駒形一登)
著者HP:ホツマツタエ解読ガイド https://gejirin.com
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孝霊天皇-1
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ふじとあわうみみつのあや (その1)
ふじとあわ海 見つの文 https://gejirin.com/hotuma32.html
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ふじとあわうみみつのあや
ときあすす よもふそやとし はつそふか あまつひつきお
うけつきて やまとふとにの あまつきみ いむなねこひこ
もろはかり あめのみまこの のりおもて たみにおかませ
ははおあけ みうえきさきと
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ふじとあわ海 見つの文
時 上鈴 四百二十八年 一月十二日 和つ日月を
受け継ぎて “ヤマトフトニの和つ君” 斎名ネコヒコ
諸 諮り 陽陰の御孫の 法を以て 民に拝ませ
母を上げ 御上后と
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■ふじとあわ海見つ (ふじとあわうみみつ)
フジ は ハラミ山
に付けられた新名、アワ海
は 「琵琶湖」 です。
ミツ(▽見つ) は 「合う・いっしょになる・一体となる」
などの意です。
■上鈴四百二十八年 (あすずよもふそやとし)
上鈴428年は 紀元前290年 に相当し、干支はサシトです。
これが孝安天皇の元年で、51歳です。 ▶上鈴 ▶干支
■ヤマトフトニ ■ネコヒコ
オオヤマトフトニ
の略で、斎名がネコヒコです。
孝昭天皇─┬春日親王─オシ姫[内宮] │ ┃─────オオヤマトフトニ(斎名ネコヒコ:孝霊天皇) └─────孝安天皇 ┃ 磯城県主ナガハヱ───ナガ姫[大典侍] ┃ 十市県主ヰサカヒコ──ヰサカ姫[中橋]
■陽陰の御孫の法 (あめのみまごののり)
ハラミの例(ためし)
の換言です。 ▶陽陰の御孫
ハラの法、ニハリの例、上代の例、ホツマ法、陽陰の御孫の例
などとも呼ばれます。
■母を上ぐ (ははおあぐ)
母とは孝安天皇の皇后である オシ姫
です。
【概意】
ふじとあわ海 見つの文
時 上鈴428年1月12日、若宮の斎名ネコヒコは
和つ日月を受け継ぎて “ヤマトフトニの和つ君”。
諸臣と協議の上、陽陰の御孫の法に則り、御飾りを民に拝ませ、
母オシ姫を昇格して御上后と。
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こそしはす よかにくろたの いほとみや
うつしてことし はつこよみ
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去年十二月 四日にクロタの イホト宮
移して今年 初暦
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■十二月・師走 (しはす)
■クロタのイホト宮 (くろたのいほとみや)
孝霊天皇の新都です。
日本書紀には 黒田廬戸宮(くろだのいおとのみや)
と記されます。
場所は現在の 奈良県磯城郡田原本町黒田
周辺と伝承され、
同地の法楽寺境内に “黒田廬戸宮阯” の碑が立ちます。
★クロタ (▽転手・黒田)
クロ(▽転)+タ(手)
で、クロは ココロ(心)
の “コロ” の変態。
ですから 「中心の区画」 を意味し、ミヤコ(都)
の換言と考えます。
★イホト (▽斎処・廬戸・庵戸)
イホトは、イホ(▽斎)+ト(処・所)
で、イホ が訛って オオ(多・大・太・意富) です。
ですから 「イホの神 (=ミシリツヒコの神)
を祀る所」 という意です。トイチ
ともいいます。
多坐弥志理都比古神社
(おおにいますみしりつひこじんじゃ)
大和国十市郡。奈良県磯城郡田原本町多569。
現在の祭神:神武天皇、神八井耳命、神沼河耳命、姫御神、太安万侶
<筆者注> 本来の祭神は
ミシリツヒコの神=カンヤヰミミ。多(おお)=斎(いほ)
です。
■初暦 (はつこよみ)
「孝霊天皇の暦の開始=孝霊元年」 ということです。
【概意】
前年の12月4日にクロタのイホト宮に都を移し、年が明けて暦があらたまる。
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ふとしきさらき そひにたつ しきのおおめか ほそひめお
きさきそかすか ちちはやか やまかひめなる すけきさき
といちまそをか ましたひめ ここたえとなる
うちよたり おしももよたり
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二年二月 十一日に立つ
磯城のオオメが ホソ姫を后ぞ
春日チチハヤが ヤマカ姫なる 典侍后
十市マソヲが マシタ姫 ココタエとなる
内四人 乙下も四人
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ここは五七調が少々いびつなため、言葉の区切りを調整しています。
■磯城のオオメ (しきのおおめ)
「磯城県主のオオメ」 で、オオメは ナガハヱ
の子と考えられます。
すなわち孝安天皇の大典侍 ナガ姫
の兄弟です。
日本書紀には 磯城県主大目
と記されます。
クロハヤ┬ハエ┬ワカハヱ┬ナガハヱ┬オオメ─ホソ姫 (孝霊天皇の内宮) │ │ │ │ │ │ │ └ナガ姫 (孝安天皇の大典侍) │ │ │ │ │ └ヌナキ姫 (孝昭天皇の典侍) │ │ │ └カハツ姫 (安寧天皇の典侍) │ ├カワマタ姫 (綏靖天皇の大典侍) │ └ヰデ──ヰヅミ姫 (懿徳天皇の典侍)
■ホソ姫 (ほそひめ)
磯城県主オオメ の娘で、孝霊天皇の内宮となります。
記紀には 細媛命 / 細比売命
と記されます。
磯城県主は神武天皇以来、つねに典侍后を皇室に入れてきましたが、
ここでついに 内宮 (=御后)
を輩出します。
■春日チチハヤ (かすがちちはや)
「春日県主のチチハヤ」 で、チチハヤは 春日親王
の子と考えられます。
記紀には 春日之千千速 /
春日千乳早 と記されます。
孝昭天皇─┬春日親王─┬春日チチハヤ─ヤマカ姫 │ │ │ └オシ姫 │ ├──孝霊天皇 └──────孝安天皇
■ヤマカ姫 (やまかひめ)
春日県主チチハヤ の娘で、孝霊天皇の典侍となります。 ▶典侍
記紀には 春日之千千速・真若比売
/ 春日千乳早・山香媛 と記されます。
ヤマ(▽和)+カ(処・科) で、カスガ県 の換言と考えます。
■十市マソヲ (といちまそを)
「十市県主のマソヲ」 で、マソヲは ヰサカヒコ
の子と考えられます。 ▶十市県
日本書紀には “マソヲ” の名は現れず、“十市県主等祖”
とのみ記されます。
アウヱモロ┬オオマ┬フトマワカ┬サタヒコ┬──ヰサカヒコ──┬マソヲ─マシタ姫(孝霊天皇の中橋) (春日県主)│ │ │ │(十市県主へと異動)│ │ │ │ │ └ヰサカ姫(孝安天皇の中橋) │ │ │ │ │ │ │ └オオヰ姫(孝昭天皇の中橋) │ │ │ │ │ └イイ姫(懿徳天皇の中橋) │ │ │ └イトヰ姫(安寧天皇の中橋) │ ├イトオリ姫(綏靖天皇の中橋) └ヌナタケ姫(アタツクシネの妻)
■マシタ姫 (ましたひめ)
十市県主マソヲの娘で、孝霊天皇の ココタエ(=中橋)
となります。
日本書紀には 真舌媛
と記されます。
■内 (うち) ■乙下 (おしも)
ウチ(内)は ウチメ(内侍)
の略、オシモ(乙下)は オシモメ(乙下侍)
の略です。
【概意】
孝霊2年2月11日、磯城県主オオメのホソ姫を后(内宮)に立てる。
春日県主チチハヤのヤマカ姫は典侍后、十市県主マソヲのマシタ姫はココタエとなる。
他に内侍が4人、乙下侍も4人。
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みとしはる おおみなくちと おおやくち ともにすくねと
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三年春 オオミナクチと オオヤクチ 共にスクネと
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■オオミナクチ ■オオヤクチ
ホツマに出自の説明はなく、他文献にも諸説あってはっきりしませんが、
この2人は兄弟で、いずれも イツシココロ
の子と仮定しています。
旧事紀に 大水口宿禰、大矢口宿禰
と記されます。
ニギハヤヒ─ウマシマチ─ヒコユキ┬イツモシコ(安寧朝の食国臣) ├オオネ臣(安寧朝の斎主) └イヅシココロ(孝昭朝の食国臣)─┬オオミナクチ(孝霊天皇の宿禰) └オオヤクチ ( 〃 )
■スクネ (▽助根・宿禰・足尼・足禰) ■棟の臣
(むねのとみ)
スク(▽助)+ネ(根) で、スク は スク(助く)
の名詞形で、スケ(助・輔・次官・典侍)
の変態。
ネ(根) は 「根本・主」 を意味します。ですから
「臣の主・モノノベの司」 という語義です。
ゆえにさまざまなレベル/ランクの スクネ
がいたと考えられます。「棟の臣」 とも呼ばれます。
この場合は中央政府の最高ランクのスクネをいい、食国臣 の換言と考えています。
【概意】
孝霊3年の春、オオミナクチとオオヤクチを共にスクネとなす。
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なつうちめ やまとくにかか みつこうむ
なはみなやまと ももそひめ ゐさせりひこに わかやひめ
ははもやまとの おおみやめ
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夏 内侍 ヤマトクニカが 三つ子生む
名はみな ヤマト モモソ姫 ヰサセリヒコに ワカヤ姫
母も “ヤマトの皇宮侍”
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■ヤマトクニカ (大和国処)
「大和国の区画」 という意で、これは 「大和の国造」
を意味します。
そしてここでは、その国造の姫を “ヤマトクニカ”
と呼んでいます。 ▶カ(処・科)
孝霊天皇の内侍の1人で、ヤマトモモソ姫・ヤマトヰサセリヒコ・ヤマトワカヤ姫
の
3つ子を生み、(おそらく典侍に昇格して)、“ヤマトの皇宮侍”
と称えられます。
日本書紀は 倭国香媛、またの名を
絙某姉(はえいろね)
と記します。
大和国造は初代が ウツヒコ (=シイネツヒコ) ですが、その後の系譜は語られていません。
ウツヒコが殊 船と埴 大和国造 〈ホ30-3〉
■ヤマトモモソ姫 (やまとももそひめ)
ヤマトクニカ姫が生んだ3つ子の1人目で、“モモソ姫”
と略されます。
記紀には 夜麻登登母母曽毘売命
/ 倭迹迹日百襲姫命 などと記され、
ヤマトモモソ姫と、後出のトト姫が
渾然一体となっています。
霊的に敏感だったようで、この姫が交霊するシーンがたびたび登場します。
■ヤマトヰサセリヒコ
ヤマトクニカ姫が生んだ3つ子の2人目で、孝霊天皇の長男です。
記紀には 比古伊佐勢理毘古命
/ 五十狭芹彦命 などと記されます。
■ヤマトワカヤ姫 (やまとわかやひめ)
ヤマトクニカ姫が生んだ3つ子の3人目です。ホツマには名前のみの登場で、
記紀には 倭飛羽矢若屋比売命
/ 倭迹迹稚屋姫命 などと記されます。
■ヤマトの皇宮侍 (やまとのおおみやめ)
ヤマトクニカ姫の別名です。
ヤマト(大和・倭) の オオミヤ(皇宮)+メ(侍)
で、「大和国から来た皇宮の侍女」 の意です。
オオミヤメ(皇宮侍)は ヰメ(斎侍)、ツボネ(局)、キサキ(后)
の換言です。
孝安天皇┐ ├────孝霊天皇 オシ姫─┘ ┃ ┃ 大和国造─────ヤマトクニカ姫[内侍]──┬(1)ヤマトモモソ姫 (ヤマトの皇宮侍) │ 3つ子├(2)ヤマトヰサセリヒコ │ └(3)ヤマトワカヤ姫
【概意】
夏、内侍のヤマトクニカ姫が3つ子を生む。
名にはみな “ヤマト”
を冠して、モモソ姫、ヰサセリヒコ、ワカヤ姫。
母も “ヤマトの皇宮侍” と称える。
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そひふゆいもと はえおうち
そみしはすはつ はえひめも またみつこうむ
なはゑわかたけひこの なかひこさしま とわかたけひこ
ははもあけ わかおおみやめ
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十一冬 妹 ハエを内
十三年十二月一日 ハエ姫も また三つ子生む
名は 兄ワカタケヒコの 中ヒコサシマ 弟ワカタケヒコ
母も上げ “若皇宮侍”
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ここは五七調が少々いびつなため、言葉の区切りを調整しています。
■妹ハエ (いもとはえ) ■ハエ姫 (はえひめ)
ヤマトクニカの妹 「ハエ姫」 です。記紀には 蠅伊呂杼
/ 絙某弟 と記されます。
この姫も 兄ワカタケヒコ、ヒコサシマ、弟ワカタケヒコ の3つ子を生み、
昇格して “若皇宮姫” と称えられます。
■兄ワカタケヒコ (ゑわかたけひこ)
ハエ姫が生んだ3つ子の1人目で、後に吉備上道を治めます。
日本書記は 稚武彦命、古事記は
“大吉備津日子命、吉備上道臣の祖” と記しますが、
弟ワカタケヒコ や ヰサセリヒコ
との区別があいまいで、大いに混乱してます。
■ヒコサシマ
ハエ姫が生んだ3つ子の2人目で、後に越国を治めます。
記紀には 日子寤間命 /
彦狭島命 と記されます。
■弟ワカタケヒコ (とわかたけひこ)
ハエ姫が生んだ3つ子の3人目で、後に吉備下道を治めます。
日本書記は一応、“弟稚武彦命”
と記していますが、兄の稚武彦と同一人と解釈されています。
古事記には 若日子建吉備津日子命
などと記されます。
『日本書記』亦妃ハヘ某弟生 彦狭嶋命。稚武彦命。弟稚武彦命。是吉備臣之始祖也。
『古事記』大吉備津日子命、吉備上道臣の祖。
次に若日子建吉備津日子命、吉備下道臣と笠臣の祖。
次に日子寤間命、針間の牛鹿臣の祖。
次に日子刺肩別命、高志之利波臣・豊国之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖。
『小田郡北田村鳥越家』本家は吉備津彦の弟稚武彦の子孫で、代々吉備氏を後に下道氏を名乗ります。
■若皇宮侍 (わかおおみやめ)
ハエ姫の別名です。ワカ(若)+オオミヤ(皇宮)+メ(侍)
で、
“若” は ヤマトの皇宮侍 の
「妹」 を意味するのでしょう。
孝安天皇┐ ├────孝霊天皇 オシ姫─┘ ┃ ┃ 大和国造─┬───ヤマトクニカ姫[内侍]──┬(1)ヤマトモモソ姫 │ (ヤマト皇宮侍) │ │ ┃ 3つ子├(2)ヤマトヰサセリヒコ │ ┃ │ │ ┃ └(3)ヤマトワカヤ姫 │ ┃ └───ハエ姫[内侍]──────┬(4)兄ワカタケヒコ (若皇宮侍) │ 3つ子├(5)ヒコサシマ │ └(6)弟ワカタケヒコ
【概意】
孝霊11年冬、妹のハエを内侍に召す。
孝霊13年12月1日、ハエ姫もまた3つ子を生み、
名は
兄ワカタケヒコの、中はヒコサシマ、そして弟ワカタケヒコ。
母も昇格させて、“若皇宮侍” と称える。
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そやほはる はつもちきさき うむみこは
やまとねこひこ くにくるの いみなもときね
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十八年春 一月十五日 后 生む御子は
ヤマトネコヒコ クニクルの 斎名モトキネ
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■后 (きさき)
内宮(=正妃)の ホソ姫 を指します。
■ヤマトネコヒコクニクル ■モトキネ
内宮ホソ姫が生んだ孝霊天皇の末の男子で、斎名がモトキネです。
記紀には 大倭根子日子国玖琉命
/ 大日本根子彦国牽天皇 などと記されます。
後の 孝元天皇
です。
孝安天皇┐ ├────孝霊天皇 オシ姫─┘ ┃ ┃ 磯城県主オオメ──ホソ姫[内宮]───────(7)ヤマトネコヒコクニクル(斎名モトキネ:孝元天皇) ┃ 春日県主チチハヤ─ヤマカ姫[典侍] ┃ 十市県主マソヲ──マシタ姫[中橋] ┃ 大和国造─┬───ヤマトクニカ姫[内侍]──┬(1)ヤマトモモソ姫 │ (ヤマト皇宮侍) │ │ ┃ 3つ子├(2)ヤマトヰサセリヒコ │ ┃ │ │ ┃ └(3)ヤマトワカヤ姫 │ ┃ └───ハエ姫[内侍]──────┬(4)兄ワカタケヒコ (若皇宮侍) │ 3つ子├(5)ヒコサシマ │ └(6)弟ワカタケヒコ
【概意】
孝霊18年春の1月15日に、后ホソ姫が生む御子は、
ヤマトネコヒコクニクルの斎名モトキネ。
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ふそゐはる いつもはつそひ あかためし
みなものたまひ みことのり
もしひはらみこ うむものは みかとにつけよ
したたみも たまものあるそ
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二十五(年)春 いつも一月十一日 県召
皆 物賜ひ 御言宣
「もし一孕三子 生む者は 御門に告げよ
下民も 賜物あるぞ」
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【概意】
孝霊25年の春、1月11日恒例の県召、皆に物を賜いて御言宣。
「もし一孕みで3子を生んだ者は御上に告げよ。下民も賜物あるぞ。」
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そのゆえは あめのみまこの さくやひめ みつこうむより
のちきかす われいまみつこ うむにつき ほのかにきけは
みつこおは まひくとなつけ ころすとや
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「そのゆえは 陽陰の御孫の サクヤ姫 三つ子生むより
後 聞かず 我いま三つ子 生むにつき ほのかに聞けば
三つ子をば “間引く” と名付け 殺すとや」
―――――――――――――――――――――――――――――
■サクヤ姫 (さくやひめ)
コノハナサクヤ姫
の略で、ニニキネの内宮(=正妃) アシツ姫の別名です。
十二充ちて 六月初日 三つ子生む その胞衣の紋 梅・桜 卯木と変わり 〈ホ24-6〉
■ほのか (仄か・側か)
ホノ+カ(▽如・▽然)
で、ホノは オボロ(朧)
の “ホロ” の変態です。
「紛れるさま・埋もれるさま・はっきりしないさま」
を表します。
また ホノは “ほんのり” “ぼんやり” “ほんの少し”
などの ホン の変態です。
【概意】
「そのゆえは、陽陰の御孫のサクヤ姫が3つ子を生んでより、後には聞かず。
我がいま3つ子を生むにつき、ほのかに聞けば、3つ子をば
“間引く” と名づけ殺すとや!?」
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いまよりあらは つみひとそ
わかこもひとは あめのたね しかいぬちより ひとひとり
たけみなかたの のりなりと みことさたまる
くにつかさ たみにふれんと もろかえる
―――――――――――――――――――――――――――――
「今よりあらば 罪人ぞ
“我が子も人は 陽陰の胤 鹿・犬
千より 人ひとり”
タケミナカタの 宣なり」と 御言定まる
地司 民に触れんと 諸 帰る
―――――――――――――――――――――――――――――
■陽陰の胤 (あめのたね)
アメ(陽陰) は この場合は アメノミヲヤ(陽陰の上祖)
をいいます。
ですから 「創造神アメノミヲヤの末裔」
という意で、これは
「人類のみが創造神の “創造する能力”
を受け継いでいる」 ことを意味します。 ▶胤
万の齢の 尊・彦 やや千節保つ 民も皆 クニトコタチの 後末なり
その元 悉く アメミヲヤ 〈ホ14-2〉
■タケミナカタ
■地司・国司 (くにつかさ)
1月11日の 県召(あがためし)
により都に召された 「地方の国を治める司たち」
をいいます。
【概意】
「今よりあれば罪人ぞ。“我が子であっても
人はすべてアメノミヲヤの末裔。
鹿・犬の千匹より人ひとりの命は重し” タケミナカタの宣である」
と、御言が定まる。
地司らは領民に告げんと、皆帰っていった。
本日は以上です。それではまた!