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一から学ぶ ほつまつたえ講座 第175回 [2024.8.17]
第三一巻 直り神 ミワ神の文 (8)
著者:おあずけ2号 (駒形一登)
著者HP:ホツマツタエ解読ガイド https://gejirin.com
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孝昭天皇
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なおりかみみわかみのあや (その8)
直り神 ミワ神の文 https://gejirin.com/hotuma31.html
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ときあすす ふもよそみとし つみゑはる
むつきつうゑは こかきしゑ あまつひつきお うけつきて
かゑしねあめの すへらきみ かさりおかませ
うつきゐか みうゑきさきと ははおあけ
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時 上鈴 二百四十三年 ツミヱ春
一月ツウヱは 九日キシヱ 和つ日月を 受け継ぎて
“カヱシネ天の皇君” 飾り拝ませ
四月五日 御上后と 母を上げ
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■上鈴二百四十三年ツミヱ (あすずふもよそみとしつみゑ)
上鈴243年は 紀元前475年
に相当し、これが孝昭天皇の元年です。 ▶上鈴 ▶干支
■一月ツウヱは九日キシヱ (むつきつうゑはこかきしゑ)
「ツウヱで始まる1月の、9日目のキシヱの日」
という意です。 ▶干支
■カヱシネ天の皇君 (かゑしねあめのすべらきみ)
第5代孝昭天皇で、斎名はミルヒトです。 ▶カヱシネ ▶天の皇君
綏靖天皇┐ │ ├安寧天皇┐ │ ├────懿徳天皇 │ヌナソ姫┘ ┃ │ ┃ └イキシ親王────アメトヨツ姫[内宮]───(1)カヱシネ(斎名ミルヒト) ┃ 磯城県主ヰデ────ヰヅミ姫[典侍] ┃ 春日県主フトマワカ─イイ姫[ココタヘ]────(2)タチマ(斎名タケシヰ)
■母を上ぐ (ははおあぐ)
母とは 懿徳天皇の皇后である アメトヨツ姫
です。
【概意】
時 上鈴243年ツミヱ新春。1月1日ツウヱの9日キシヱ、
和つ日月を受け継ぎて、“カヱシネ天の皇君”。
飾りを民に拝ませて、4月5日に母(=アメトヨツ姫)を皇太后に昇格。
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かたきわきかみ ゐけこころ みやこうつして
はつとしに いつしこころお けくにとみ
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葛城 掖上 池心 都 移して
初年に イツシココロを 食国臣
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■葛城 (かだき) ■掖上
(わきかみ)
■池心・▽活心 (ゐけこころ)
孝昭天皇の新都に付けられた名です。
記紀には 葛城掖上宮/掖上池心宮 と記されます。
御所実業高等学校正門南側の 民家の畑の中に石碑
が立ちます。
ヰケ/イケ(活け)+ココロ(心)
で、ヰケ/イケ(活け) は 葛(くず・かつら・かつ・かだ)
の換言。
ゆえに 「カツラギ(葛城)の中心・カツラギの都」
を意味します。
現在は 奈良県御所市池之内
と呼ばれてます。
■イツシココロ
イツモシコ
の別名と考えます。
旧事紀には 出石心命
と記され、ヒコユキ
の子で、イツモシコ・オオネ臣
の兄弟とされます。
ニギハヤヒ─ウマシマチ─ヒコユキ┬イツモシコ (安寧朝の食国臣) ├オオネ臣 (安寧朝の斎主) └イヅシココロ (孝昭朝の食国臣)
【概意】
葛城/掖上の池心に都を移して、
初年にイツシココロを食国臣となす。
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きみとしみそひ さかいおか わかみやのとき
わかはゑか ぬなきめはすけ さたひこか めのおおゐめは
なかはしに をしてあつかふ かりすけよ
うちはへむたり しもよたり あおめみそたり
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君 歳三十一 境岡 若宮の時
ワカハヱが ヌナギ姫は典侍 サタヒコが 姫のオオヰ姫は
中橋に ヲシテ扱ふ 仮典侍よ
内侍六人 下四人 青侍三十人
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■若宮 (わかみや)
■ワカハヱ (▽若葉江)
ハエ(葉江)
の子で、この時の 「磯城県主」 と考えられます。
安寧天皇の典侍カハツ姫の兄弟です。
磯城県主としては クロハヤ・ハエ・ヰテ
に続く4代目です。
■ヌナキ姫 (ぬなきめ)
ワカハヱの娘で、孝昭天皇の典侍となります。
日本書紀には 渟名城津媛
と記されます。
クロハヤ─┬ハエ────┬ワカハヱ───ヌナキ姫 (孝昭天皇の典侍) │ │ │ └カハツ姫 (安寧天皇の典侍) │ ├カワマタ姫 (綏靖天皇の大典侍) │ └ヰデ─────ヰヅミ姫 (懿徳天皇の典侍)
■サタヒコ
フトマワカ
の子で、この時の 「春日県主」 と考えられます。
懿徳天皇の 中橋(=ココタヘ)
イイ姫の兄弟です。
日本書紀には 豊秋狭太媛
と記されます。
■オオヰ姫 (おおゐめ)
サタヒコの娘で、孝昭天皇の 中橋(=ココタヘ)
となります。
日本書紀には 大井媛
と記されます。
アウヱモロ┬オオマ┬フトマワカ┬サタヒコ─オオヰ姫 (孝昭天皇の中橋) │ │ │ │ │ └イイ姫 (懿徳天皇の中橋) │ │ │ └イトヰ姫 (安寧天皇の中橋) │ ├イトオリ姫 (綏靖天皇の中橋) └ヌナタケ姫 (アタツクシネの妻)
■ヲシテ扱ふ仮典侍 (をしてあつかふかりすけ)
中橋(=ココタヘ)
の職務と地位を説明しています。
皇の御言を臣に伝えたり、臣の言上を皇に伝えたりする際の中継ぎ役です。 ▶ヲシテ守
★仮典侍 (かりすけ)
東西南北の局 にいる4人の内侍の中の、「筆頭格の内侍」
を指し、
これが 中橋(=ココタヘ)
を務めます。
■内侍 (うちはべ)
ウチメ(内侍) の換言です。
■下 (しも)
オシモメ(▽乙下侍)
の略です。
【概意】
君は歳31。境岡 (=カルマガリオ) の皇太子の時に、
磯城県主ワカハヱのヌナキ姫を典侍に、
春日県主サタヒコのオオヰ姫を中橋と。ヲシテを取り次ぐ仮典侍よ。
また内侍6人、乙下侍6人、青侍30人。
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ふそことし きしゑはつみか きさきたつ
よそたりひめの としそゐそ
むかしやひこに ゆりひめお たまえはうめる あめゐたき
このあめおしを まこむすめ よそたりはこれ
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二十九年 キシヱ一月三日 后 立つ
ヨソタリ姫の 歳十五ぞ
昔ヤヒコに ユリ姫を 賜えば生める アメヰタキ
子のアメオシヲ 孫娘 ヨソタリはこれ
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■后立つ (きさきたつ)
孝昭29年ですから、天皇が60歳の時に、15歳の姫を皇后としたことになります。
■ヨソタリ姫 (よそたりひめ)
アメオシヲの娘、アメヰタキの孫娘で、孝昭天皇の内宮に立てられます。 ▶内宮
記紀には 余曽多本毘売命
/ 世襲足媛 と記されます。
タカクラシタ ├───アメヰダキ──アメオシヲ─┬オキツヨソ (孝昭朝の食国臣) ユリ姫 └ヨソタリ姫 (孝昭天皇の内宮)
■ヤヒコ
■ユリ姫 (ゆりひめ)
■アメヰタキ
ヤヒコとユリ姫の子です。他文献や神社では 天五多手(あまのいたて)、
天五田根(あめのいたね・あめのいつたね)
などと呼ばれ、ムラクモ
と混同されています。
武呉神社
(たけくれじんじゃ)
新潟県西蒲原郡弥彦村大字弥彦、弥彦神社摂社。
現在の祭神:天五田根命 (第一嗣:あめのいつたねのみこと)
■アメオシヲ
アメヰタキの子で、ヨソタリ姫の父です。
旧事紀には 天忍男命
と記されます。
タカクラシタ ├───アメヰダキ──アメオシヲ ユリ姫
船山神社
(ふなやまじんじゃ)
新潟県新潟市西蒲区福井、弥彦神社境外摂社。
現在の祭神:天忍人命 (第二嗣:あめのおしひとのみこと)
<筆者注> 旧事紀は天忍人命を
天忍男命の父としていますが、2人は同一人物と思います。
【概意】
孝昭29年キシヱの1月3日に内宮を立てる。ヨソタリ姫の歳15ぞ。
昔ヤヒコにユリ姫を賜えば生めるアメヰタキ、子のアメオシヲ、孫娘ヨソタリはこれ。
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みそひとし うちみやのあに おきつよそ なるけくにとみ
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三十一年 内宮の兄 オキツヨソ なる食国臣
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■オキツヨソ (尾張連の祖)
アメオシヲの子で、ヨソタリ姫の兄です。
記紀には 奥津余曽 /
瀛津世襲命 と記されます。
タカクラシタ ├───アメヰタキ──アメオシヲ─┬オキツヨソ (孝昭朝の食国臣) ユリ姫 └ヨソタリ姫 (孝昭天皇の内宮)
ホツマには説明がないため、旧事紀の記で補うと、大連タカクラシタの孫
アメオシヲが、
葛城 (=高尾張) を治める ツルギネ
の姫を娶り、オキツヨソ(瀛津世襲命) を生みます。
これがヤマトタケの時代にたびたび登場する “尾張連”
の起源であるようです。 ▶大連
【旧事紀】
天忍男命、葛木の剣根(つるぎね)命の
賀奈良知姫(かならちひめ)を 妻とし2男1女を生む。
即ち、尾張連の祖の瀛津世襲(おきつよそ)命、建額赤(たけぬかあか)命、世襲足姫(よそたらしひめ)命。
【概意】
孝昭31年、内宮の兄オキツヨソ、なる食国臣。
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よそゐとし さつきそゐかに きさきうむ
いむなおしきね あめたらし ひこくにのみこ
よそことし きみゑはつひに きさきうむ
いむなおしひと やまとたり ひこくにのみこ
うむときに あさひかかやき
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四十五年 五月十五日に 后生む
斎名オシキネ アメタラシ ヒコクニの御子
四十九年 キミヱ初日に 后生む
斎名オシヒト ヤマトタリ ヒコクニの御子
生む時に 朝日輝き
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■オシキネ ■アメタラシヒコクニ
内宮ヨソタリ姫が生んだ孝昭天皇の長男で、斎名がオシキネです。
記紀には 天押帯日子命 /
天足彦国押人命 と記されます。
“孝昭45年” の誕生ですから、天皇は76歳、后は31歳ということになります。
■オシヒト ■ヤマトタリヒコクニ
内宮ヨソタリ姫が生んだ孝昭天皇の2男で、斎名がオシヒトです。
記紀には 大倭帯日子国押人命
/ 日本足彦国押人尊 と記されます。後の孝安天皇です。
懿徳天皇────┐ ├───孝昭天皇 アメトヨツ姫──┘ ┃ ┃ 大連アメオシヲ────ヨソタリ姫[内宮]┬(1)アメタラシヒコクニ(斎名オシキネ) ┃ │ 磯城県主ワカハヱ───ヌナギ姫[典侍] └(2)ヤマトタリヒコクニ(斎名オシヒト) ┃ 春日県主サタヒコ───オオヰ姫[中橋]
■生む時に朝日輝き (うむときにあさひかがやき)
これは タマデ御子(安寧天皇)
が生まれる時と同じ状況です。
磯城が家 朝日 輝けば “タマデ”
が御名を すすめ言ふ 〈ホ31ー6〉
しかもこれは “元日の日の出”
ですから、アマテルの誕生と同じ状況です。
時 二十一鈴 百二十五枝 三十一
キシヱの 初日の出
若日と共に 生れませば 斎名ワカヒト 〈ホ28-1〉
【概意】
孝昭45年5月15日に后(=ヨソタリ姫)が生む
斎名オシキネ、アメタラシヒコクニの御子。
孝昭49年キミヱの元日に后の生む
斎名オシヒト、ヤマトタリヒコクニの御子、
生む時に朝日が輝き。
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むそやとし むつきそよかに おしひとお わかみやとなす
としはたち あすおしきねお をきみとし かすかおたまふ
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六十八年 一月十四日に オシヒトを 若宮となす
歳二十 明日オシキネを 親王とし 春日を賜ふ
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■親王 (をきみ)
■春日を賜ふ (かすがおたまふ) ■十市県 (といちあがた・とちあがた)
「大和国の 春日県
を与える」 という意です。
そうなると、現職の春日県主である サタヒコ
はどうなるのでしょう?
ホツマには説明がないのですが、磯城県や春日県の一部を割いて、新たに
十市県 を新設し、サタヒコの子のヰサカヒコをその県主に任じたようです。 ▶トイチ
(『多神社注進状』に、春日県が十市県に変わった旨が書かれています。)
アウヱモロ───オオマ───フトマワカ───サタヒコ───ヰサカヒコ (春日県主初代) (2代) (3代) (4代) (十市県主初代)
【概意】
孝昭68年1月14日、オシヒトを皇太子となす。歳は20。
また、日をあらためて、オシキネを親王となし、春日県を賜う。
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やそみとし あきはつきゐか きみまかる としももそみそ
とみきさき みなととまりて もにつかふ
みこかみまつる としみそゐ をやにつかえて たみをさむ
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八十三年 秋八月五日 君 罷る 歳百十三ぞ
臣 后 皆 留まりて 喪に仕ふ
皇子 神纏る 歳三十五 親に継がえて 民 治む
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■留まりて喪に仕ふ (とどまりてもにつかふ)
普通は アマテルが定めた48日
を以て喪を抜けるわけですが、
その後も 「留まって喪に服す」
という意に解しています。 ▶仕ふ
■皇子神纏る (みこかみまつる)
ミコ(皇子)は 「皇太子のオシヒト」 を指します。
“神纏る” は この場合は 「喪纏りを執り行う」
ということです。 ▶喪纏り
後述されますが、この時は “神霊の送還” のみで、“骸の送還”
は行っていません。
■親に継がふ (をやにつがふ)
ツガフ(継がふ)は
「継ぐ・続く」 と同義です。この場合は
まだ即位前であるため、
「皇太子の立場のまま 父帝の政を引き継ぐ」
という意味でしょう。
【概意】
孝昭83年秋の8月5日、君罷る。歳113ぞ。
臣と后は <48日を過ぎても> みな留まって喪に服す。
35歳の皇太子は神霊の喪纏りをなし、父帝の政を継いで民を治む。
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かれあにをきみ うえなひて
そのこおおやけ あわたおの かきもといちし そとみまめ
きみとしことの はつきゐか やよのもまつり まことなるかな
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故 兄親王 諾ひて
その子オオヤケ アワタ・オノ カキモト・イチシ 十臣
忠
君 年毎の 八月五日 八夜の喪纏り 真なるかな
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■兄親王 (あにをきみ) ■春日親王 (かすがをきみ)
父帝より “親王” の称号と春日県を賜った アメタラシヒコクニ(斎名オシキネ)
を指します。
以後は多く 春日親王(かすがをきみ) と呼ばれます。
■諾ふ (うえなふ)
この場合は、弟皇子の
「和つ日月としての資質を認めて協力する」
ということかと思います。
■オオヤケ ■アワタ ■オノ ■カキモト ■イチシ
いずれも春日親王の子で、それぞれ オオヤケ(大宅氏)、アワタ(粟田氏)、
オノ(小野氏)、カキモト(柿本氏)、イチシ(壱比韋氏)
の祖となります。
■八月五日 (はつきゐか)
父帝 (孝昭天皇) の命日です。
■喪纏り (もまつり)
この “喪纏り” は 「神霊を世に呼び戻すこと」 をいい、年の纏り(としのまつり)
の換言です。
今風に言えば 「命日の供養」 です。 ▶喪
【概意】
ゆえに兄親王は弟君を認めて従い、
その子の
オオヤケ・アワタ・オノ・カキモト・イチシほか、10臣は君に忠をなす。
君が年毎の8月5日に行う8夜の喪纏りは、真の心の表れかな。
本日は以上です。それではまた!