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一から学ぶ ほつまつたえ講座 第176回 [2024.8.20]

第三一巻 直り神 ミワ神の文 (9)

著者:おあずけ2号 (駒形一登)
著者HP:ホツマツタエ解読ガイド https://gejirin.com

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 孝安天皇

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 なおりかみみわかみのあや (その9)
 直り神 ミワ神の文 https://gejirin.com/hotuma31.html
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 ときあすす みもふそむとし はつのなか
 あまつひつきお うけつきて たりひこくにの あまつきみ
 いむなおしひと くらひなる かさりおたみに おかませて

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 時 上鈴 三百二十六年 一月の七日
 和つ日月を 受け継ぎて “タリヒコクニの和つ君”
 斎名オシヒト 位 成る 飾りを民に 拝ませて

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■上鈴三百二十六年 (あすずみもふそむとし)
上鈴326年は 紀元前392年に相当し、干支はヲアト。
これが孝安天皇の元年です。 ▶上鈴 ▶干支


和つ日月 (あまつひつき) ■和つ君 (あまつきみ)

■タリヒコクニ (たりひこくに)
ヤマトタリヒコクニ (斎名オシヒト) の略で、この時35歳です。


飾りを民に拝ます (かざりおたみにおがます)

 

【概意】
時 上鈴326年1月7日、和つ日月を受け継ぎて、
“タリヒコクニの和つ君”、斎名オシヒトの位成る。
飾りを民に拝ませて、



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 しきなかはゑか なかひめお おおすけきさき
 とちゐさか ひこかゐさかめ うちきさき
 なかはしにいて をしてもり すへてそふなり

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 磯城ナガハヱが ナガ姫を 大典侍后
 十市ヰサカ ヒコがヰサカ姫 内后
 長橋に居て ヲシテ守 総て十二なり

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■磯城ナガハヱ (しきながはゑ)
「磯城県主のナガハヱ」 で、ナガハヱは ワカハヱの子と考えられます。
すなわち孝昭天皇の典侍ヌナキ姫の兄弟です。
日本書紀はこの人物を、祖父のハエ(葉江)と混同しています。


■ナガ姫 (ながひめ)
磯城県主ナガハヱの娘で、孝安天皇の大典侍となります。
この姫は他文献には登場しません。

 クロハヤ┬ハエ┬ワカハヱ┬ナガハヱ┬オオメ
     │  │    │    │
     │  │    │    └ナガ姫(孝安天皇の大典侍)
     │  │    │
     │  │    └ヌナキ姫(孝昭天皇の典侍)
     │  │
     │  └カハツ姫(安寧天皇の典侍)
     │
     ├カワマタ姫(綏靖天皇の大典侍)
     │
     └ヰデ─ヰヅミ姫(懿徳天皇の典侍)


大典侍后 (おおすけきさき)

 
■十市ヰサカヒコ (とちゐさかひこ)
「十市県主のヰサカヒコ」 です。 ▶十市県
日本書紀には 十市県主五十坂彦 と記されます。

 ヰ(▽結)+サカ(境) は 「結い合せた区画」 の意で、十市県の換言と考えています。


■ヰサカ姫 (ゐさかひめ)
十市県主ヰサカヒコの娘で、孝安天皇の 中橋(=ココタヘ) となります。
日本書紀には 五十坂媛 と記されます。

 アウヱモロ┬オオマ┬フトマワカ┬サタヒコ┬──ヰサカヒコ───ヰサカ姫(孝安天皇の中橋)
 (春日県主)│   │     │    │(十市県主へと異動)
      │   │     │    │
      │   │     │    └オオヰ姫(孝昭天皇の中橋)
      │   │     │
      │   │     └イイ姫(懿徳天皇の中橋)
      │   │
      │   └イトヰ姫(安寧天皇の中橋)
      │
      ├イトオリ姫(綏靖天皇の中橋)
      └ヌナタケ姫(アタツクシネの妻)


内后 (うちきさき)

中橋 (なかはし) ■ヲシテ守 (をしてもり)

 

【概意】
磯城県主ナガハヱの ナガ姫を大典侍后に。
十市県主ヰサカヒコの ヰサカ姫を内后とし、中橋に居るヲシテ守。
<その他の局も> 合せて12人なり。



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 ふとしふゆ むろあきつしま にいみやこ
 そひほむれくも ほをむしお つくれはきみの 
 みつからにはらひ かせふの まつりなす 
 かれよみかえり みつほあつ よりてほつみの まつりなす

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 二年冬 ムロアキツ州 新都
 十一年 むら雲 蝕虫を 付くれば
 君の自らに祓ひ “カセフの纏り” なす
 故よみがえり 瑞穂充つ よりて “ホツミの祭” なす

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  ここは五七調が少々いびつなため、言葉の区切りを調整しています。

■ムロアキツ州 (むろあきつしま)
孝安天皇の新都に付けられた名です。記紀には 葛城室之秋津島宮/室秋津嶋宮 と記されます。
現在の 奈良県御所市室 付近と考えられており、八幡神社境内に 室秋津島宮阯 の碑が立ちます。
また辺りには “秋津” の名を持つ施設がちらほら見られます。 ▶ムロ(室) ▶アキツ州


むら雲 (むらくも)

蝕虫 (ほをむし)

カセフの纏り (かせふのまつり)

■瑞穂充つ (みづほあつ)
「成果をあてがう・実りをもたらす」 という意です。  ▶瑞穂
アツ(当つ・充つ)は 現代語では アテル(当てる・充てる) です。


ホツミの祭 (ほつみのまつり)

 

【概意】
孝安2年冬、ムロアキツ州を新都となす。
孝安11年、むら雲が稲に蝕虫を付ければ、君 自らの祓 “カセフの纏り” をなす。
しかればよみがえって実りをもたらす。よりて “ホツミの祭” をなす。



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 ふそむとしはる きさらそよ かすかをきみの おしひめお
 いれてうちみや ことしそみ

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 二十六年春 二月十四 春日親王の オシ姫を
 入れて内宮 今年十三

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春日親王 (かすがをきみ)

 懿徳天皇────┐
         ├───孝昭天皇
 アメトヨツ姫──┘     ┃
               ┃
 大連アメオシヲ────ヨソタリ姫[内宮]┬(1)アメタラシヒコクニ(斎名オシキネ)
               ┃    │
 磯城県主ワカハヱ───ヌナギ姫[典侍] └(2)ヤマトタリヒコクニ(斎名オシヒト)
               ┃
 春日県主サタヒコ───オオヰ姫[中橋]

■オシ姫 (おしひめ)
春日親王(アメタラシヒコクニ 斎名:オシキネ)の娘で、孝安天皇の内宮となります。 ▶内宮
天皇にとっては姪 (兄の娘) にあたります。書紀/旧事紀には 押媛(おしひめ) と記されます。
オシキネ親王の」 という意味だと思います。
 孝昭天皇─┬春日親王─オシ姫[内宮]
      │      ┃
      └─────孝安天皇(ヤマトタリヒコクニ:斎名オシヒト)
             ┃
 磯城県主ナガハヱ───ナガ姫[大典侍]
             ┃
 十市県主ヰサカヒコ──ヰサカ姫[中橋]

 

【概意】
孝安26年春の2月14日、春日親王のオシ姫を入れて内宮。今年13歳。(天皇は61歳)



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 みそみとしのち はつきそよ おくるみうえの おもむろお
 はかたのほらに おさむなり とみめのからも みなおさむ
 いきるみたりも おひまかる あめみこのりや

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 三十三年後 八月十四 送る御上の 骸を
 ハカタの洞に 納むなり 臣・侍の骸も みな納む
 生きる三人も 追ひ罷る “陽陰御子典” や

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■三十三年後 (みそみとしのち)
これは 「崩御から33年後」 という意です。


送る (おくる)
神霊(みたま)は、48日の喪が明けた時に天に還しています ので、
この場合は 「亡骸を土(冥土)に還すこと」 ということです。


御上 (みうゑ・みうえ)
「先代の君である孝昭天皇」 を指します。

 孝昭天皇の崩御は治世83年 (上鈴325年) の8月5日ですから、
 その33年後は、上鈴358年、すなわち孝安天皇の32年となります。


納む (おさむ)

■臣・侍の骸 (とみめのから)
トミ(臣)は、先帝の側近くに仕えた 「内臣」 をいうのでしょう。 ▶内臣
メ(侍)は ヰメ(斎侍) の略で、「つぼね」 の換言です。 ▶つぼね ▶骸(から)

 亡骸を陵墓に納めるのが、崩御の33年後となった理由は、生き埋めを不憫に思う天皇が、
 内臣や后たちが自然死するのを待っていたからではないかと考えます。


■ハカタ
孝昭天皇の亡骸を葬った場所の名です。記紀には 掖上博多山上 と記されます。
現在は宮内庁により、奈良県御所市大字三室 にある俗称 「博多山」 に治定されています。

 ハカ(’捌く’ の名詞形)+タ(手・▽方) で、ハク(捌く) は ハコブ(運ぶ) の母動詞、
 「往き来させる・回す・送る・還す」 などが原義です。タ(手) は 「方・区分・区画」 です。
 ですから 「送りの場所・送還の区画」 という意です。福岡市の 博多 も同義と思います。


洞 (ほら)

■陽陰御子典 (あめみこのり)
アメミコ(陽陰御子) は 「神武天皇」 を指します。
ですから 「神武天皇の典例・先例」 という意です。

 神武天皇が崩御した時、大典侍后のアヒラツ姫と、右臣のクシミカタマ(斎名:ワニヒコ)は
 天皇と共に洞に入りました。翌日知らされると、さらに33人が後を追って殉死します。
 以後これが、天皇の死に際しての、内臣と后の不文律となったようです。

  アヒラツ姫と ワニヒコと 問わず語りを なし侍る … …
  君・臣 共に 洞に入り 神となること 明日聞きて 追ひ罷る者 三十三人
  世に歌う歌  『
陽陰御子が 天に還れば 三十三追ふ 忠も操も 通る天かな』
〈ホ31ー4〉

 

【概意】
<崩御から> 33年後の8月14日、
送る先帝の亡骸を ハカタの洞に納むなり。
臣や后の亡骸もいっしょに納め、生きていた3人も追い罷る。
陽陰御子(=神武天皇)の典例や。



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 ゐそひとし なかつきはつひ きさきうむ
 いむなねこひこ おおやまと ふとにのみこそ
 なそむとし はるむつきゐか 
 ねこひこの としふそむたつ よつきみこ

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 五十一年 九月初日 后生む
 斎名ネコヒコ オオヤマトフトニの御子ぞ
 七十六年 春一月五日 
 ネコヒコの 歳二十六 立つ 代嗣御子

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■ネコヒコ ■オオヤマトフトニ
内宮オシ姫が生んだ孝安天皇の長男で、斎名がネコヒコです。
記紀には 大倭根子日子賦斗邇命/大日本根子彦太瓊尊 と記されます。後の 孝霊天皇 です。
この時 孝安天皇86歳、オシ姫38歳です。

 孝昭天皇─┬春日親王─オシ姫[内宮]
      │      ┃─────オオヤマトフトニ(斎名ネコヒコ)
      └─────孝安天皇
             ┃
 磯城県主ナガハヱ───ナガ姫[大典侍]
             ┃
 十市県主ヰサカヒコ──ヰサカ姫[中橋]

 

【概意】
孝安51年9月1日に 后(=オシ姫)が生む、斎名ネコヒコ、オオヤマトフトニの御子ぞ。
孝安76年の新春1月5日、ネコヒコ26歳を皇太子に立てる。



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 こそふとしはる するかみや はふりはらのゑ たてまつる
 みこもふせとも きみうけす

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 九十二年春 スルガ宮 ハフリ ハラの絵 奉る
 皇子申せども 君 受けず

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■スルガ宮 (するがみや)
スルガは スワ(諏訪) の換言で、「そびえ立つ所・そそり立つ所・山岳地」 を意味します。
後に静岡県の中央部を指す地名となりますが、語義としては、スルガ=スワ=甲府 です。
スルガ宮は “スワサカオリ宮” とも呼ばれます。


ハフリ (▽侍り)
この場合は 「スルガ宮の治めを預かる臣」 をいいます。


■ハラの絵 (はらのゑ)
「ハラ山の風景画」 です。 ▶ハラ山


■皇子 (みこ)
皇太子の オオヤマトフトニ (斎名:ネコヒコ) を指します。

 

【概意】
孝安92年の春、スルガ宮の守がハラミ山の絵を献上する。
皇太子が取り次ぐも、君は受けず。

  たいして重要とは思えないエピソードですが、
  この話は 32アヤの物語につながっていて、そのための布石です。



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 みよももふとし むつきこか きみまかるとし ももみそな
 みこもはおさむ よそやのち わかみやにいて まつりこと
 なかつきみかに おもむろお たまてにおくり
 ゐたりおふ ともにおさめて あきつかみかな

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 御代百二年 一月九日 君罷る 歳 百三十七
 皇子 喪納む 四十八後 若宮に出で 政事
 九月三日に 骸を タマテに送り
 五人追ふ 共に納めて “アキツ神” かな

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御代 (みよ)

■喪納む四十八後 (もはおさむよそやのち)
「喪を終えた48日後」 という意です。 ▶喪 ▶納む ▶四十八


■若宮 (わかみや)
この場合は 「皇太子の御所」 を表し、春宮(はるみや) とも呼ばれます。
今風には 東宮東宮御所 といいます。  ▶春夏秋冬と東南西北

 まだ即位前であるため、“皇宮” には入らず、
 “若宮” にて先帝の政を引き継いだ、ということです。


■タマテ (▽回手)
孝安天皇の亡骸を葬った場所に付けられた名です。
日本書紀は 玉手丘上陵 と記します。
現在は宮内庁により、奈良県御所市大字玉手 にある 「玉手丘上陵」 に治定されています。

 タマは タム(回む) の名詞形で、「回す・送る・還す」 などの意。
 テ(手)は 「方・区分・区画」 ですので、これも 「送りの場所・回送の区画」 の意です。


■アキツ神 (あきつかみ)
孝安天皇に捧げられた 贈り名 です。
アキツは この天皇の都 ムロアキツ州 によるものと思います。

 

【概意】
御代102年1月9日、君罷る。137歳。
皇太子は喪が明けた48日後に、若宮へ出て政を執る。
9月3日に亡骸をタマテに送り、5人が後を追えば、
共に納めて、“アキツ神” かな。

 

本日は以上です。それではまた!

 

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