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一から学ぶ ほつまつたえ講座 第173回 [2024.8.11]
第三一巻 直り神 ミワ神の文 (6)
著者:おあずけ2号 (駒形一登)
著者HP:ホツマツタエ解読ガイド https://gejirin.com
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安寧天皇
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なおりかみみわかみのあや (その6)
直り神 ミワ神の文 https://gejirin.com/hotuma31.html
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ときあすす ももなそねあと あふみみか
みこしきひとの としみそみ
あまつひつきお うけつきて たまてみあめの すへらきみ
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時 上鈴 百七十ネアト 七月三日
皇子シキヒトの 歳三十三
和つ日月を 受け継ぎて タマデミ天の皇君
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■上鈴百七十ネアト (あすずももなそねあと)
上鈴170年は 紀元前548年に相当し、これが安寧天皇元年です。 ▶上鈴 ▶干支
■七月 (あふみ)
“アフミ月” の略です。 ▶アフミ月
■和つ日月 (あまつひつき)
■天の皇君 (あめのすべらきみ) ■天皇・天の皇 (あま/あめすべらぎ・あめのすべらぎ)
皇の天君(すべらぎのあまきみ) という意で、後に言う 天皇(てんのう)
です。 ▶皇 ▶天君
ホツマの中においては 「本物の天君ではない天君」
という、皮肉っぽい意味合いを筆者は感じます。
【概意】
時 上鈴170年ネアトの7月3日、皇太子シキヒト33歳、
和つ日月を受け継ぎて “タマデミ天の皇君”。
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むかしここなの はなみとて みすすよりひめ かわまため
しきくろはやか たちにゆき みこうまんとし みかやめる
ときめをときて これおこふ きみにもふして
たまてみこ かかえとりあけ やすくうむ
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昔 菊の 花見とて ミスズヨリ姫 カワマタ姫
磯城クロハヤが 館に行き 御子生まんとし 三日病める
時 夫婦来て これを還ふ 君に申して
「タマデ御子 抱え取りあけ 安く生む」
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ここで話は少し脱線して、“タマデ”
の名の由来の説明が挿入されます。
■菊・九花 (ここな)
■カワマタ姫 (かわまため)
■磯城クロハヤが館 (しきくろはやがたち)
「シキ県を治めるクロハヤの館」 という意です。 ▶磯城(しき) ▶クロハヤ ▶館
■御子生まんとし (みこうまんとし)
妊娠中のミスズヨリ姫が、にわかに 「産気づいた」
ということでしょう。
■病める (やめる)
ヤム(病む)の連体形です。
ヤムの原義は「曲る・逸れる・外れる・異常/不調となる・苦しむ」などです。
■還ふ (こふ)
コフは カエス(還す)の母動詞 “カフ” の変態で、
「返す/還す・元にもどす・改める・癒す・直す」
などが原義です。
■タマデ御子 (たまでみこ)
ここは、ヲシテ原文には “タマデヒコ”
と記されますが、誤写と判断して修正しています。
【概意】
むかしミスズヨリ姫とカワマタ姫が菊の花見とて、
磯城のクロハヤの館に行くと、急に産気づいて3日苦しむ時、
ある夫婦が来てこれを癒す。君に申して、
「タマデの御子を抱えて取り分けました。安産でした。」
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しきかやあさひ かかやけは たまてかみなお すすめいふ
かはねおとえは をはこもり めはかつてひこ
たまふなは わかみやのうし もりのとみ
こもりかつての ふたかみお よしのにまつり
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磯城が家 朝日 輝けば “タマデ”
が御名を すすめ言ふ
姓を問えば 男はコモリ 女はカツテ彦
賜ふ名は “若宮の大人” “守の臣”
コモリ・カツテの 二神を 吉野に纏り
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■磯城が家 (しきがや)
磯城クロハヤが館 の換言です。
■タマデ (▽尊出・玉出) ■タマデミ (▽尊出見・玉出見)
「日の出」
の換言で、日の出と共に生れることを意味します。 ▶若日と共に生れます
タマデミ(▽尊出見)とも呼ばれますが、これは
「日の出にお目見え」 という意です。
タマ(▽尊・玉)+デ(出)
は、「尊きものの出現」 という意です。
この場合 “尊きもの” とは
「日の神霊=アマテルの神霊(みたま)」 をいいます。
ですから 「日の神 (=アマテル神) のお出まし=日の出」
を意味します。
■コモリ ■カツテ
この夫婦はコモリとカツテの子孫のようです。
コモリは産婦人科医の元祖、カツテは助産夫の元祖でした。
■若宮の大人 (わかみやのうし) ■守の臣 (もりのとみ)
綏靖天皇がタマデ御子を取り分けた夫婦に賜った氏名です。 ▶大人
■吉野に纏る (よしのにまつる)
コモリとカツテの神霊を纏った社は吉野に現存します。 ▶吉野
吉野水分神社
(よしのみくまりじんじゃ)
奈良県吉野郡吉野町吉野山1612。
現在の祭神:天之水分神 (子守明神)
<筆者注> 別名は子守宮。ミクマリ(水分)は ミコモリ(御子守)の転訛と考えられます。
勝手神社 (かってじんじゃ)
奈良県吉野郡吉野町吉野山2354。
現在の祭神:受鬘命 (うけのりのみこと)
・吉野水分神社祭神の子守明神とは夫婦神であるとされる。
<筆者注> 受鬘命は 「鬘(かつら)を受けた命」
の意で、ヒトコトヌシから
葛城(かつらぎ)を受け継いだ カツテ尊(斎名ヤスヒコ)
の換言。
【概意】
磯城が家に朝日が輝けば、“タマデ”
の御名をすすめ言う。
姓を問えば、男はコモリ、女はカツテ彦。
それぞれ “若宮の大人” “守の臣” と名を賜い、
<その御祖である> コモリとカツテの2神を吉野に纏る。
以上で “タマデ”
の名の説明が終り、本題にもどります。
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ははおあけ みうゑきさきと
なれみなも いみなもそれそ
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母を上げ 御上后と
慣れ御名も 斎名もそれぞ
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■母を上ぐ (ははおあぐ)
母とは 綏靖天皇の正妃ミスズヨリ姫です。
■慣れ御名 (なれみな)
「慣れ親しむ御名」 の意で、モロガナ(諸が名)
と同じです。
かつては 女子の斎名は 「**子」 「子**」 の3音に決まっていたようですが、
この時代にはだいぶ変わってきているのかもしれません。
女は乗らず 二親二つ 男に受けて 子を生むゆえに “何子姫” また
“子何姫”
“何小” とも “小何”
とも付く 女の名三つ 男の名和り四つ 〈ホ4ー5〉
【概意】
母を昇格させて御上后とす。
慣れ御名も斎名もそれ (ミスズヨリ姫) ぞ。
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かんなそか おもむろおくる つきたおか
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十月十日 骸送る ツキタオカ
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■十月 (かんな)
神無月(かみなつき・かなつき)
の略です。
■骸 (おもむろ) ■送る
(おくる)
■ツキタオカ
綏靖天皇が葬られた場所に付けられた名です。
記紀には 衝田岡
/ 桃花鳥田丘上陵
と記され、現在は宮内庁により、
奈良県橿原市四条町
の 「塚山・塚根山」 に治定されています。神武天皇陵
のすぐ北です。
ツキタ(尽きた)+オカ(▽送) で、オカは オクル(送る)の母動詞
“オク” の名詞形。
「行き着きたる人を送る所」 の意で、ヒラオカ
と同じような意味です。
【概意】
10月10日に父帝の骸をツキタオカに送る。
崩御が前年の5月10日ですので、1年5か月が経過しています。
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きみゑのしはす かたしほの うきあなみやこ
きみとはつ ぬなそひめたつ うちつみや これはくしねか
おふえもろ ぬなたけめとり いいかつと ぬなそうむなり
しきはえか かはつめすけに
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キミヱの十二月 カタシホの ウキアナ都
キミト一月 ヌナソ姫立つ 内つ宮 これはクシネが
オフエモロ ヌナタケ娶り イイカツと ヌナソ生むなり
磯城ハエが カハツ姫 典侍に
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■キミヱ
安寧2年 (上鈴171年・紀元前547年) にあたります。 ▶干支
■カタシホのウキアナ (▽葛終の浮孔)
日本書紀は 片塩浮孔宮
と記します。奈良県大和高田市片塩町
の 石園座多久虫玉神社 境内に、
片塩浮孔宮阯碑が立っていますが、おおよそJR和歌山線の
御所駅―玉手駅―掖上駅の、
北側の区画と考えてます。
カタシホ と ウキアナ は同義語で、どちらも
「葛城の端」 を意味します。 ▶葛城
カダ(葛)+シホ(▽締)
の、シホは シメ(締め)の変態で、「葛の終り・葛の端」
を意味します。
ウキ(浮き)+アナ(穴・孔)
の、ウキ(浮き)は イケ(活け)の変態で、これも
カダ(葛) の換言。
アナ(穴・孔)は ハナ(端)
の変態です。
■ヌナソ姫 (ぬなそひめ)
アタツクシネの姫で、安寧天皇の 内つ宮(=正妃)
です。
日本書紀には 渟名襲媛/渟名底仲媛命
と記されます。
■クシネ ■オフエモロ ■ヌナタケ姫
(ぬなたけひめ)
ヌナタケ姫は オフエモロの娘です。
クシミカタマ─アタツクシネ ├────タケイイカツ─アタオリ姫 (綏靖天皇の典侍) ├────ヌナソ姫 アウヱモロ─┬ヌナタケ姫 ├オオマ └イトオリ姫 (綏靖天皇の勾当→典侍)
■イイカツ・タケイイカツ
“タケイイカツ” の略で、ヌナソ姫の兄です。
旧事紀に 健勝命・建飯賀田須命、古事記には
飯肩巣見命
と記されます。
■磯城ハエ (しきはえ)
「磯城県主のハエ」 という意です。
ハエ/ハヱは クロハヤの代嗣子で、記紀に 波延/葉江
と記されます。
ハエ/ハヱ は クロハヤの “ハヤ” の変態だと思います。
■カハツ姫・カワツ姫 (かはつひめ・かわつひめ)
ハエの娘で、安寧天皇の典侍で、日本書紀には 川津媛
と記されます。 ▶典侍
カワツ(川津)は 「川の処」 の意で、カワマタ(川股)
と同じ。磯城県
の換言と考えます。 ▶つ(津)
クロハヤ─┬ハエ──カハツ姫 (弟磯城) │ └カワマタ姫 (綏靖天皇の大典侍)
【概意】
キミヱ(安寧2年)の12月、カタシホ(葛城)のウキアナ(池端)に新都。
キミト(安寧3年)の1月、ヌナソ姫を内つ宮に立てる。
これはクシネがオフエモロのヌナタケ姫を娶って、イイカツとヌナソ姫を生むなり。
磯城ハエのカハツ姫を典侍に。
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これのさき おおまかいとゐ なかはしに
うむみこいみな いろきねの とこねつひこそ
かれうちお おおすけとなす
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これの先 オオマがイトヰ 中橋に
生む御子 斎名 イロキネの トコネツヒコぞ
故 内を 大典侍となす
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■オオマ
アウヱモロ
の嗣子で、カスガ県主です。 ▶カスガ県
オオマは オフ(合ふ)+マ(真) の意で、カスガ(▽和直)
の換言と考えています。
日本書紀には 大間宿禰
と記されます。
アウヱモロ──┬オオマ ├イトオリ姫 (綏靖天皇の勾当) └ヌナタケ姫 (アタツクシネの妻)
■イトヰ姫 (いとゐひめ)
オオマの娘で、日本書紀に 糸井媛
と記されます。
安寧天皇の 勾当(ここたえ・ここたへ)
になります。
“イトヰ” は ココタエの換言で、「往き来」
を意味すると考えています。
アウヱモロ──┬オオマ───イトヰ姫 (安寧天皇の勾当) │ ├イトオリ姫 (綏靖天皇の勾当) └ヌナタケ姫 (アタツクシネの妻)
■中橋 (なかはし)
“ミコ中橋” の略で、これは ココタエ(勾当)
の換言です。 ▶ミコ中橋
■イロキネ ■トコネツヒコ
イトヰ姫が生んだ安寧天皇の長男で、斎名はイロキネです。
古事記には 常根津日子伊呂泥命(とこねつひこいろねのみこと)
と記されます。
また日本書紀は イキシミミ(=イキシ御子)
と混同しています。
タマデミ(安寧天皇) アウヱモロ──┬オオマ───┬フトマワカ ├────トコネツヒコ(斎名イロキネ) │ └イトヰ姫 (安寧天皇の勾当) │ ├イトオリ姫 (綏靖天皇の勾当) └ヌナタケ姫 (アタツクシネの妻)
■内 (うち)
ウチメ(内侍)
の略で、ココタエ(=中橋)
の 「イトヰ姫」 を指します。
ココタエは筆頭格の内侍が務め、「仮典侍」
とも呼ばれます。
【概意】
それ以前に、オオマのイトヰ姫を中橋となして生む御子が、
斎名イロキネのトコネツヒコ。
しかればイトヰ姫を内侍から大典侍に昇格させる。
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かわつひめ うむみこいみな はちきねの しきつひこみこ
よほつやゑ うつきそゐかに ぬなそひめ うむみこいむな
よしひとの おおやまとひこ すきともそ
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カワツ姫 生む御子
斎名 ハチキネの シキツヒコ御子
四年ツヤヱ 四月十五日に ヌナソ姫 生む御子 斎名
ヨシヒトの オオヤマトヒコ スキトモぞ
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■ハチキネ ■シキツヒコ
典侍の カワツ姫
が生んだ安寧天皇の2男で、斎名がハチキネです。
記紀には 師木津日子命/磯城津彦命
と記されます。
■ヨシヒト ■オオヤマトヒコスキトモ
内宮の ヌナソ姫 が生んだ安寧天皇の3男で、斎名がヨシヒトです。
記紀には 大倭日子鉏友命/大日本彦耜友尊
と記されます。後の 懿徳天皇
です。
【概意】
カワツ姫が生む御子は、斎名ハチキネのシキツヒコの御子。
安寧4年ツヤヱの4月15日に、内宮ヌナソ姫が生む御子は、
斎名ヨシヒトのオオヤマトヒコスキトモぞ。
綏靖天皇───┐ ├──タマデミ(安寧天皇) ミスズヨリ姫─┘ ┃ ┃ ??県主アタツクシネ─ヌナソ姫(内宮)──────(3)オオヤマトヒコスキトモ(斎名ヨシヒト) ┃ 磯城県主ハエ────カハツ姫(典侍)──────(2)シキツヒコ(斎名ハチキネ) ┃ 春日県主オオマ───イトヰ姫(勾当→大典侍)──(1)トコネツヒコ(斎名イロキネ)
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たけいいかつと いつもしこ なるけくにをみ
おおねとみ なるいわひぬし
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タケイイカツと イツモシコ なる “食国臣”
オオネ臣 なる斎主
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■タケイイカツ
アタツクシネの嗣子で、旧事紀は 健勝命・建飯賀田須命、古事記は
飯肩巣見命
と記します。
クシミカタマ─アタツクシネ ├────タケイイカツ─アタオリ姫 (綏靖天皇の典侍) ├────ヌナソ姫 アウヱモロ─┬ヌナタケ姫 ├オオマ └イトオリ姫 (綏靖天皇の勾当→典侍)
タケ(▽貴・▽高)+イイ(飯)+カツ(▽和つ)
で、「神饌の供え」 を意味すると考えます。
つまり “食国臣” (次々出) の換言です。
■イツモシコ
ホツマには出自の説明はありませんが、旧事紀によれば
ヒコユキ の子です。 ▶ヒコユキ
旧事紀に 出雲色命/出雲醜大臣命
などと記されます。
ニギハヤヒ─ウマシマチ─ヒコユキ┬イツモシコ (安寧朝の食国臣) ├オオネ臣 (安寧朝の斎主) └イツシココロ (孝昭朝の食国臣)
■食国臣 (けくにをみ・けくにとみ)
国政り神饌供え申す大臣
の略です。
食国の大臣(けくにのおとど)、政の臣(まつりのをみ)、御食主(みけぬし)、御食臣(みけもち)
などとも呼ばれます。初代はウマシマチ1人でしたが、その後はウマシマチの末裔(物部系)と、
クシミカタマの末裔(モノヌシ系)の、2系統を並立させ、世襲により食国臣を務めたようです。
■オオネ臣 (おおねとみ)
これもホツマには出自の記載はなく、旧事紀によれば
ヒコユキの子で、イヅモシコの兄弟です。
旧事紀には 大禰命
と記されます。
ニギハヤヒ─ウマシマチ─ヒコユキ┬イツモシコ (安寧朝の食国臣) ├オオネ臣 (安寧朝の斎主) └イヅシココロ (孝昭朝の食国臣)
オオ(多・大・太・意富)
は イホ(斎) の変態。ネは ネギ(禰宜)
の略。
「神を慈しんで ねぎらう臣」 の意で、“斎主” (次出)
の換言と考えます。
■斎主 (いわひぬし・いはひぬし)
「神を斎く主・慈しむ主」 という意味です。 ▶斎ふ ▶主
ここに言う “斎主” は 常設の官職 と思われます。ホツマの記からは
どういう役職なのか
今一つ判然としませんが、おそらくは 鏡臣(=左の臣)
に代わるものでしょう。
だとすれば、ここに 鏡の臣
と モノヌシ
は過去の遺物となり、
政治の実権は “斎主” と “食国臣”
に移ったということになるかと思います。
タケイイカツは
オオモノヌシの血統ですが、イヅモシコとオオネは
ウマシマチの血統で、物部系の台頭が際立ちます。
【概意】
タケイイカツとイツモシコは食国臣となり、
オオネ臣は斎主となる。
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むほをしゑ むつきそゐかに うちのうむ
いむなときひこ くしともせ
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六年ヲシヱ 一月十五日に 内の生む
斎名トキヒコ クシトモセ
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■内 (うち)
この場合は 内つ宮・内宮
の略で、ヌナソ姫 を指します。
■トキヒコ ■クシトモセ
内宮のヌナソ姫が生んだ安寧天皇の4男で、斎名がトキヒコです。
日本書紀には 武石彦奇友背命、旧事紀には
武彦奇友背命
と記されます。
【概意】
安寧6年ヲシヱの1月15日に内宮が生む、斎名トキヒコのクシトモセ。
綏靖天皇───┐ ├──タマデミ(安寧天皇) ミスズヨリ姫─┘ ┃ ┌(3)オオヤマトヒコスキトモ(斎名ヨシヒト) ┃ │ ??県主アタツクシネ─ヌナソ姫(内宮)─────┴(4)クシトモセ(斎名トキヒコ) ┃ 磯城県主ハエ────カハツ姫(典侍)──────(2)シキツヒコ(斎名ハチキネ) ┃ 春日県主オオマ───イトヰ姫(勾当→大典侍)──(1)トコネツヒコ(斎名イロキネ)
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そひのはつみか よしひとの いまやとせにて よつきみこ
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十一年の一月三日 ヨシヒトの 今
八歳にて 代嗣御子
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【概意】
安寧11年の1月3日、8歳のヨシヒトを代嗣御子(皇太子)となす。
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みそやさみゑの しはすむか すへらきまかる
わかみやの もはいりよそや ほきもなし
いさかわみそき みやにいて まつりこときく とみわけて
うきあなのかみ みあえなす
あきおもむろお うねひやま みほとにおくる としななそなり
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三十八年サミヱの 十二月六日 皇 罷る
若宮の 喪入り四十八 祝も無し
イサ川 禊 宮に出で 政聞く 臣 分けて
“ウキアナの神” みあえなす
秋 骸を 畝傍山 ミホトに送る 歳七十なり
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■若宮 (わかみや)
皇太子のヨシヒトを指します。 ▶ヨシヒト
■喪入り四十八 (もはいりよそや)
「喪に入ること48日」 という意です。 ▶喪
(もは・も) ▶喪に入る ▶四十八
■祝も無し (ほぎもなし)
12月に天皇が罷ったため 「新年の祝賀行事も無し」
という意に解しています。 ▶祝
■イサ川禊 (いさかわみそぎ)
「イサ川での禊」 という意です。 ▶イサ川 ▶禊
■ウキアナの神 (うきあなのかみ)
安寧天皇に捧げられた贈り名です。ウキアナ
は安寧天皇の都の名です。
■みあえなす (▽敬なす・▽斎なす・御饗なす)
これが トキ(斎)
の起源ではないかと考えてます。 ▶みあえ
■ミホト
安寧天皇が葬られた場所に付けられた名です。
日本書紀は 畝傍山西南の 御陰井上陵(みほどのいのえのみささぎ)
と記し、
現在は宮内庁により、奈良県橿原市吉田町
にある俗称 アネイ山
に治定されています。
【概意】
安寧38年サミヱの12月6日、皇は罷る。
若宮は48日の喪に入り、新年の祝賀も無し。
イサ川に禊をして宮に出で、政を執る臣を別にして、“ウキアナの神”
を斎く。
秋に亡骸を畝傍山のミホトに納める。70歳であった。
本日は以上です。それではまた!