⇦前の講座          目次           次の講座⇨ 

 

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

一から学ぶ ほつまつたえ講座 第179回 [2024.8.31]

第三二巻 ふじとあわ海 見つの文 (3)

著者:おあずけ2号 (駒形一登)
著者HP:ホツマツタエ解読ガイド https://gejirin.com

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

 孝霊天皇-3

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ふじとあわうみみつのあや (その3)
 ふじとあわ海 見つの文 https://gejirin.com/hotuma32.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

―――――――――――――――――――――――――――――
 みなみちお みやこにかえり
 むめみやの はふりほつみの おしうとに
 いつあさまみこ やまつみの よかみうつして やすかわら

―――――――――――――――――――――――――――――
 南道を 都に帰り
 梅宮のハフリ ホツミの治人に
 イツアサマ御子 ヤマヅミの 四神移して “ヤス川原”

―――――――――――――――――――――――――――――
 
■梅宮のハフリ (むめみやのはふり)
“梅宮” は 梅皇宮 と同じ、つまり ハラミサカオリ宮 です。 ▶ハフリ(▽侍り)
ですから 「ハラミサカオリ宮を治める主」 という意です。

  
■ホツミの治人 (ほつみのおしうど)
「東の統治人」 の意で、“梅宮のハフリ” の換言ですが、その呼称、個人名と考えます。
ホツミは ホツマ・アヅマ(東) の変態、オシウド(治人) は 「治める人」 の意です。 ▶オシ(治)

 この時期、ホツマ国 には 梅皇宮(=ハラミサカオリ) と スワサカオリ の2つの宮があります。
 ホツマ国の領主(=ハラ皇君) タケヒテルは、スワサカオリに移って、そこをホツマの国都とし、
 旧国都のハラミサカオリの治めは、“ホツミの治人” に預けていると考えられます。
 ホツミの治人は、おそらく ヤマズミ(山統み)=オシヤマ(治山:‘山統み‘の換言) の系統で、
 後代この人の末裔が 穂積氏 を名乗ったものと考えています。


■イツアサマ御子 (いつあさまみこ)
イツの尊(=ニニキネ) アサマの神(=アシツ姫) の御子」 の意で、
ホノアカリ(斎名:ムメヒト)、ホノススミ(斎名:サクラギ)、ヒコホオデミ(斎名:ウツキネ) の
3つ子をいいます。

 アマテル─┐
      ├オシホミミ┐
 セオリツ姫┘     ├┬クシタマホノアカリ
            ││
 タカキネ──チチ姫──┘└ニニキネ  ┌ホノアカリ(斎名ムメヒト)
                ├───┼ホノススミ(斎名サクラギ)
 カグツミ───マウラ──┬アシツ姫  └ヒコホオデミ(斎名ウツキネ)
             │
             └イワナガ


ヤマヅミ・ヤマズミ (▽山統み)
オオヤマズミの略で、3代目オオヤマズミの “マウラ” を指します。 ▶マウラ
マウラ は アシツ姫の父で、ニニキネの時代にハラミの サカオリ宮 を預かった人物です。

 預かりの オオヤマズミが 御饗なす 御膳捧ぐ アシツ姫 〈ホ24-4〉


■ヤス川原 (やすかわら)
ヤス(▽和)+カワラ(川原・河原) で、神霊を 「合わす川原・纏る川原」 の意と考えます。 ▶纏る
“ヤス川” は 現在の浅間大社の東側を流れる 「神田川」 の古名だろうと思います。

 これもおそらくハラミ山の噴火の影響だと思いますが、イヅアサマ御子 と ヤマヅミ の神霊を
 纏る社を移転したということだと思います (移転前の場所は不明)。移転先は現在の浅間大社の
 地です。ところが後世、坂上田村麻呂が 勅命により浅間大神を山宮から宮町の現在地に移す際、
 先にあった社を、立宿の地 (現:富士宮市朝日町) に移したと、「富士山本宮社記」 は伝えます。
 それが現在 富知神社 と呼ばれている社です。

 富知神社 (ふくちじんじゃ)
 駿河国富士郡。静岡県富士宮市朝日町12-4。 
 現在の祭神:大山津見神
 摂社 三峯神社:祭神不明
 ・創建は孝霊天皇2年と伝える。延喜式神名帳は “ふぢじんじゃ” と記載。
 <筆者考> 三峯神社 は イツアサマ神の3つ子を纏る社と考えられます。

 富士山本宮浅間大社 (ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)
 駿河国富士郡。静岡県富士宮市宮町1-1。
 現在の祭神:木花之佐久夜毘売命
 ・延喜式神名帳は浅間神社と記載。

 山宮浅間神社 (やまみやせんげんじんじゃ)
 駿河国富士郡。静岡県富士宮市山宮740番地(字宮内)。
 現在の祭神:木花之佐久夜毘売命 (浅間大神)
 ・富士山本宮浅間大社の元社。

 

【概意】
南道を都に帰ると、梅宮のハフリである “ホツミの治人” に、
イツアサマ御子とヤマヅミの4神を移させて “ヤス河原” に纏る。



―――――――――――――――――――――――――――――
 ときたけひてる たまかわの かんたからふみ たてまつる
 これあめみまこ はらをきみ そのこかみよの みのりゑて
 いまになからえ

―――――――――――――――――――――――――――――
 時タケヒテル たまかわの 神宝文 奉る
 これ陽陰御孫 ハラ皇君 その子 上代の 御法得て
 今に永らえ

―――――――――――――――――――――――――――――

タケヒテル
名の意味は タケヒ+テル(照る) で、「ホツマ国を照らす者」 の意と思います。 ▶ホツマ国
ですから ハラの皇君 の言い換えです。

 ★タケヒ (丈日・▽高日)
 タカヒ(高日) の変態で、「日の上り・日が上る所・東」 が原義です。
 タカヒは “ヒタカミ” の換言ですが、タケヒは “ホツマ” の換言です。 ▶東 ▶ホツマ


■たまかわ (▽回替)
タム(回む)カフ(替ふ) の連結 “タマカフ” の名詞形で、
両語とも 「往き来させる・回す・巡らす・伝える」 などが原義です。
よって 「回し伝えること・伝来」 の意に解しています。


■神宝文 (かんたからふみ)
「アマテル神に関する尊い文」 あるいは 「アマテル神が記した尊い文」 をいうものと思います。

 アマテルはハラミサカオリ宮に生まれ育ち、即位後はそこを都として天下を治めましたから、
 サカオリ宮にアマテルゆかりの文書が伝えられていたとして、不思議はありません。


■これ
タケヒテルを指します。


陽陰御孫 (あめみまご)

ハラ皇君 (はらをきみ)
2代ハラ皇君の ホノアカリ(斎名:ムメヒト) を指します。初代はニニキネです。


■その子 (そのこ)
ハラ皇君の子=タケヒテル を指します。

 ニニキネ(斎名キヨヒト)───ホノアカリ(斎名ムメヒト)─┬─ニギハヤヒ(斎名クニテル)
   [初代ハラ皇君]        [2代ハラ皇君]     │    [2代アスカ皇君]
                            │
                            └─タケヒテル(斎名タケテル)
                                 [3代ハラ皇君]


■上代の御法・上代の神法 (かみよのみのり)
ここでは特に 「長寿の秘法」 を言うのでしょう。上代においては数十万年の寿命は普通でしたが、
神武天皇以降の時代においては100〜300年程度となっています。 ▶上代 ▶ミ(御・▽神)

・コロ山下は 愚かにて 肉味嗜み 早枯れし 百や二百ぞ 〈ホ15-6〉
・人草の食 繁るゆえ 生れ賢しく 永らえも 千齢は
百齢と 萎り枯れて 〈ホ27-8〉

 

【概意】
時にタケヒテルは伝来の神宝文を奉る。
これ陽陰御孫、その子のハラ皇君、その子のタケヒテルであり、
上代の御法を得て今に永らえ。



―――――――――――――――――――――――――――――
 きみゑみて このたけとめお とみにこふ
 たけつつくさの まつりつく たけたのをやそ
 かんたから いつもにおさむ

―――――――――――――――――――――――――――――
 君 笑みて 子のタケトメを 臣に請ふ
 タケツツクサの 纏り継ぐ タケタの親ぞ
 神宝 出雲に納む

―――――――――――――――――――――――――――――

■タケトメ
タケヒテルの子で、他文献には 建斗米命・武刀米命 などと記されます。

 伊富岐神社 (いぶきじんじゃ)
 美濃国不破郡。岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1。 
 現在の祭神:多々美比古命
 境内社:天香語山命、天村雲命、天忍人命、天戸目命、建斗米命
     建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、若都保命


■タケツツクサ
ホツマには出自の説明はありませんが、旧事紀によれば、ヤヒコ尊(=タカクラシタ) の4世の孫で、
建筒草命
と記されます。建額赤彦 の子とされますが、建額赤彦は 「健(タケ)の額を上げる臣」 の意で、
これは オキツヨソ の別名と考えています。それゆえ以降、その末裔は タケ(健) を名乗ります。
タケ(健) は タカクラシタ の “タカ”、また タカオハリ(高尾張) の “タカ” を表したものと考えてます。

 今山神社 (いまやまじんじゃ)
 越後国蒲原郡。新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898。弥彦神社境内摂社。
 現在の祭神:建筒草命


■纏り継ぐ (まつりつぐ)
マツリ(纏り) は 「合わせ・連なり・まとめ・治め」 などを原義とし、
この場合は 「まとまり・連なり・家・家系」 を意味します。

 タケツツクサ には嗣子が無かったようで、そのため タケトメ が養子に入って
 尾張連の家(=タケの家) を継ぐということだと思います。 ▶尾張連

 ニニキネ────ホノアカリ────タケヒテル────────タケトメ
                                 ↓(養子)
 ヤヒコ─アメヰダキ─アメオシヲ┬─建額赤彦──タケツツクサタケトメ 
                │(オキツヨソ)
                │
                └ヨソタリ姫


■タケタ
タケトメ の子です。旧事紀にいう 建田背命 を指すと考えます。

 タケツツクサ─タケトメ─タケタ─┬オオアマ姫
                 ├タケモロスミ
                 └乎止与命──ミヤス姫
                          ┃
                        ヤマトタケ

 勝神社 (すぐるじんじゃ)
 越後国蒲原郡。新潟県西蒲原郡弥彦村大字弥彦2898、彌彦神社境内摂社。
 現在の祭神:建田背命


■神宝 (かんたから)
タケヒテルが奉った たまかわの神宝文 です。


■出雲に納む (いづもにおさむ)
「出雲の政庁の キツキ宮 に収蔵する」 ということです。 ▶キツキ
この時代のキツキ宮は 現在の 神魂神社 を指しますが、この宮は国家の宝物庫として
用いられていたことが、他所の記述からもうかがえます。

  出雲は上の 道の基 八百万文を 隠し置く 〈ホ34-4〉

 神魂神社 (かもすじんじゃ)
 島根県松江市大庭町563。 
 現在の祭神:伊弉冊大神、伊弉諾大神
 ・大庭大宮(おうばおうみや) とも呼ばれ、出雲国造の大祖の天穂日命が
  この地に天降られて御創建。斉明天皇の勅により出雲大社が成るや、
  杵築 (出雲大社) へ移住したる。

 

【概意】
君は笑みて、子のタケトメを臣に請い、
タケツツクサの家を継がせる。タケタの親ぞ。
神宝は出雲に納む。



―――――――――――――――――――――――――――――
 ゐそみとし にしなかおえす
 ちのくちと はりまひかわに いんへぬし やまとゐさせり
 これにそえ ゑわかたけひこ きひかんち
 とわかたけひこ きひしもち そのわけときて まつろわす
 いささわけえは ひこさしま こしくにおたす

―――――――――――――――――――――――――――――
 五十三年 西中負えず
 道の口と 播磨ヒカワに インベ主 ヤマトヰサセリ
 これに添え 兄ワカタケヒコ 吉備上道 
 弟ワカタケヒコ 吉備下道 その分け 融きて 服わす
 イササワケへは ヒコサシマ 越国を治す

―――――――――――――――――――――――――――――

■西中負えず (にしなかおえず)
“西中” は 西中国(にしなかくに) の略で、今の 「中国地方」 をいいます。
古くは サホコチタル・サホコ国・チタル国 などと呼ばれました。
“負えず” は 「手に負えない・背負いきれない」 という意で、
「西中国が中央政府の政策に従わず離反する」 状況を意味します。


■道の口 (ちのくち)
ミチノクチ(道の口) と同じで、この場合は  「山陰道の入口」 をいいます。
すなわち 丹波の国 です。 ▶山陰道

 みちのくち【道の口】〈広辞苑〉
 1.ある国に入る道の入口。
 2.古代、一国を二つまたは三つに分けたときの、都に最も近い地方。
   例えば 越(こし)地方 では 越前を 「こしのみちのくち」 という。


■播磨ヒカワ (はりまひかわ)
播磨国 の端・入口」 という意で、こちらは 「山陽道の入口」 を意味します。 ▶山陽道
ヒカワ は ヒ(鄙)カワ(側・▽郷) で、「端・隅・辺鄙・辺境」 を意味します。

 ★ハリマ (張り間・播磨)
 ヤマトヰサセリを 「張る間・張る場」 の意ではないかと思案中です。
 “張る” は 「張り付ける・見張りとして派遣する・出張させる」 という意です。


■インベ主 (いんべぬし)
「インベ(斎瓮)の主/大人」 という意で、忌部氏/斎部氏 と同じです。 ▶斎瓮 ▶主
アメトミ の後裔で、斎瓮臣(いんべとみ) とも呼ばれます。


ヤマトヰサセリ ■兄(ヱ)ワカタケヒコ ■弟(ト)ワカタケヒコ
いずれも孝霊天皇の息子です。

 孝安天皇┐
     ├────孝霊天皇
 オシ姫─┘      ┃
            ┃
 磯城県主オオメ──ホソ姫[内宮]───────(7)ヤマトネコヒコクニクル(斎名モトキネ:孝元天皇) 
            ┃
 春日県主チチハヤ─ヤマカ姫[典侍]
            ┃
 十市県主マソヲ──マシタ姫[中橋]
            ┃
 大和国造─┬───ヤマトクニカ姫[内侍]──┬(1)ヤマトモモソ姫
      │   (ヤマト皇宮侍)     │
      │     ┃       3つ子├(2)ヤマトヰサセリヒコ
      │     ┃         │
      │     ┃         └(3)ヤマトワカヤ姫
      │     ┃
      └───ハエ姫[内侍]──────┬(4)兄ワカタケヒコ
          (若皇宮侍)       │
                    3つ子├(5)ヒコサシマ
                      │
                      └(6)弟ワカタケヒコ

 
■吉備上道 (きびかんぢ) ■吉備下道 (きびしもぢ)
“吉備上道” は 後の 「備前国上道郡」、“吉備下道” は 後の 「備前国下道郡」 です。 ▶吉備国

 ★吉備・黍 (きび)
 キフ の名詞形で、キフ は キム(決む・極む) の変態です。
 「極み・極まり・果て・行き着き・終り」 などが原義で、
 “吉備” は 「日の極まる方・西」、“黍” は 「あがり・成果・果実」 を意味します。

 ★道 (みち) ★道・方 (ち)
 ミチは ミツ(▽回つ) の名詞形で、「回り・めぐり」 を原義とし、この場合は
 「周り・あたり・周辺・域」 などの意を表します。短縮形が チ(道・方)です。


■分け融く (わけとく)
“分け” は 「分離・離反」 を意味し、“融く” は 「融和する」 の意です。
ですから 「離反を融和する」 ということです。


イササワケ

ヒコサシマ

越国 (こしくに)

 

【概意】
孝霊53年、西中国が手に負えず。
山陰道の入口と 播磨の辺境に、インベ主とヤマトヰサセリヒコを。
加えて、兄ワカタケヒコを吉備上道、弟ワカタケヒコを吉備下道に張り、
その離反を融和して服従させる。
またイササワケへはヒコサシマを遣って越国を治す。



―――――――――――――――――――――――――――――――
 なそむとし きさらきやかに きみまかる としももそやそ
 みこのもは よそやにぬきて とみととむ むとせたつまて
 みあえなす いますことくに うやまひて
 とみもよおさり かりとのに をやにつかふる まことなるかな

―――――――――――――――――――――――――――――――
 七十六年 二月八日に 君 罷る 歳百十八ぞ
 皇子の喪 四十八に脱ぎて 臣 留む 六年経つまで
 みあえなす 居ます如くに 敬ひて
 臣も世を去り 仮殿に 親に継がふる 真なるかな

―――――――――――――――――――――――――――――――

■歳百十八 (としももそや)
孝霊76年は上鈴503年に相当し、天皇は孝安51年(上鈴377年)の生まれですから、
118歳では計算が合いません。128歳のまちがいと思われます。


■皇子 (みこ)
皇太子の ヤマトネコヒコクニクル(斎名:モトキネ) です。


■臣留む (とみとどむ)
皇太子は48日の喪が終わると公務に復帰しますが、
御上の臣や后には そのまま先帝の神霊を祀らせるということです。 ▶御上の臣
これはおそらく殉死を不憫に思うため、御上の臣らが自然死するのを待つためです。 ▶陽陰御子典


みあえなす (▽敬なす・▽斎なす・御饗なす)

■居ます如くに (いますごとくに)
「世に居られる如くに」 という意で、“生きますの如に”  “生きます如く” の換言です。


■仮殿に親に継がふる (かりとのにをやにつがふる)
まだ即位前であるため 遷都はせず、「仮の殿にて親の政務を引き継ぐ」 という意味です。

 ★親に継がふる (をやにつがふる)
 「父帝の政務を引き継ぐ」 という意です。

 

【概意】
孝霊76年2月8日に君罷る。歳は118ぞ。
皇太子の喪は48日に脱ぎ、御上の臣はそのまま6年経つまでみあえなす。居ます如くに敬いながら。
その臣らも世を去り、皇太子は仮殿にて親の政を継ぐ真なるかな。

 

本日は以上です。それではまた!

 

⇦前の講座          目次           次の講座⇨