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一から学ぶ ほつまつたえ講座 第185回 [2024.10.5]

第三四巻 ミマキの代 ミマナの文 (1)

著者:おあずけ2号 (駒形一登)
著者HP:ホツマツタエ解読ガイド https://gejirin.com

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 崇神天皇-2-1

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 みまきのみよみまなのあや (その1)
 ミマキの代 ミマナの文 https://gejirin.com/hotuma34.html
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 みまきのみよみまなのあや
 みつかきの とほなのそなか こしのをし おおひこかえり
 もふさくは ゆくやましろの ならさかに おとめかうたに
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 ミマキの代 ミマナの文
 ミツカキの 十年九月の十七日 越の治人 オオヒコ帰り
 申さくは 「行く山城の ナラサカに 少女が歌に
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■ミマキ (みまき) ■ミマナ (みまな)
本文中で説明します。


■ミツカキ (瑞垣・瑞籬・水垣)
磯城のミツカキ宮 をいい、その主である 崇神天皇 を意味します。

 ですから “ミツカキの十年” は 「崇神天皇の10年」 の換言です。
 これは 上鈴630年(紀元前92年) に相当し、干支は ネヤト です。 ▶干支


越の治人 (こしのをし) ■オオヒコ

■山城 (やましろ)
「ナラ山の国境」 の意です。これは ナラサカ(平境) の換言で、“山背” とは別です。
この場合 “山” は ナラヤマ(平山) を指し、“城” は 「境・限り・垣・区切り」 を意味します。

 ★城 (しろ)
 シル の名詞形で、シル は サル(去る・避る) の変態です。
 「離し・隔て・分け・境・限り・垣・区切り」 などが原義で、
 サク(離く・割く) の名詞形の サク(柵)サカ(境)、また地名の サキ(佐紀) などの換言です。


ナラサカ (▽平境・奈良坂)

 

【概意】
ミマキの代 ミマナの文
崇神天皇の10年9月17日、越の治人オオヒコが帰って申すには、
「行く山城のナラサカにて、少女の歌に、



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 みよみまき いりひこあわや おのかそゑ ぬすみしせんと
 しりつとお いゆきたかひぬ まえつとよ
 いゆきたかひて うかかわく しらしとみまき いりひこあわや
 しるしかと

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  『見よミマキ イリヒコあわや 己が副 ぬすみしせんと
 後つ門を い行き違ひぬ 前つ門よ
 い行き違ひて 窺わく 知らじとミマキ イリヒコあわや』
 しるしかと」

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 『 』内は〈ホ33-3〉とまったく同文ですので、そちらを参照願います。


しるし (印・標・徴)

 

【概意】
『見よ ミマキイリヒコ危うし
  自分の配下が 裏切ろうと裏門に入れば 行き違いに出て行く表門よ
  行き違いに入って様子を窺うのも知らず ミマキイリヒコ危うし』

  何かの知らせかと。」



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 きみこれはかる ももそひめ うまれさとくて これおしる
 きみにもふさく これしるし たけはにやすの そむくなり
 われきくつまの あたひめか かくやまはにお ひれにいれ
 いのりてくにの ものさねと これにことあり はやはかれ

―――――――――――――――――――――――――――――
 君 これ諮る モモソ姫 生れ聡くて これを知る
 君に申さく 「これしるし タケハニヤスの 背くなり
 我聞く 妻の アタ姫が 香具山埴を 領巾に入れ
 祈りて国の モノザネと これに如あり はや謀れ」

―――――――――――――――――――――――――――――

モモソ姫 (ももそひめ)
崇神天皇 の 祖父(孝元天皇) の姉 ですから、かなりの高齢です。

 孝安天皇┐
     ├────孝霊天皇
 オシ姫─┘      ┃
            ┃
 磯城県主オオメ──ホソ姫[内宮]───────(7)孝元天皇────開化天皇───崇神天皇 
            ┃
 春日県主チチハヤ─ヤマカ姫[典侍]
            ┃
 十市県主マソヲ──マシタ姫[中橋]
            ┃
 大和国造─┬───ヤマトクニカ姫[内侍]──┬(1)ヤマトモモソ姫
      │   (ヤマト皇宮侍)     │
      │     ┃       3つ子├(2)ヤマトヰサセリヒコ
      │     ┃         │
      │     ┃         └(3)ヤマトワカヤ姫
      │     ┃
      └───ハエ姫[内侍]──────┬(4)兄ワカタケヒコ
          (若皇宮侍)       │
                    3つ子├(5)ヒコサシマ
                      │
                      └(6)弟ワカタケヒコ


■聡し (さとし:形容詞)
サト+シ(▽如・▽然) で、「巡る如し」 が原義の、「察しの良いさま」 を意味します。
サト は サツ(▽察つ・▽擦つ) の名詞形、サツ は サッスル(察する) の母動詞で、
「往き来する・回る・巡る・探る」 などが原義です。


タケハニヤス

 孝霊天皇┐
     ├───────孝元天皇
 ホソ姫─┘         ┃
               ┃
 オオヤクチ─┬─────ウツシコメ[内侍→内宮]─┬(1)ヤマトアエクニ(斎名オオヒコ)
 (孝霊スクネ) │       ┃         ├(2)ワカヤマトネコヒコ(斎名フトヒヒ:開化天皇)
       │       ┃         └(3)トト姫
       │       ┃
       └ヘソキネ─イカシコメ[内侍]─────(4)オシマコト(斎名ヒコフト)
               ┃ 
 河内アオカキカケ────ハニヤス姫[乙下→内侍]──(5)ハニヤス(斎名タケハル)


■我聞く (われきく)
この場合は おそらく 「人づてに聞く」 ということではなく、「神より聞く」 の意です。


■アタ姫 (あたひめ)
タケハニヤス の妻の名で、「仇姫」 の意ではないかと思います。 ▶仇(あだ)
出自の説明はなく、日本書紀には 吾田媛 と記されます。


香山埴 (かぐやまはに)
神武東征の折、タカクラ山の麓で磯城軍・葛城軍と対戦する時に、天皇は夢に
“香具山の埴の平盆に神饌を盛って神を祭れ” と言う告げを受け、それに従って戦勝を得ています。
アタ姫は神武天皇の成功にあやかろうとしたのでしょう。

 統君祈る 夢の告げ 「神を祭れよ 香山の 埴の枚手に ヒモロケ」 と 〈ホ29ー4〉


領巾 (ひれ)
この中に香具山の埴を入れて 「常に身に着けていた」 ということでしょう。


祈る (いのる)

モノザネ (物実)
この場合は 「大和の国を我が物とする思いの実現」 を、
「香具山の埴を身に着けること」 で置き換えているわけです。


■これに如あり (これにことあり)
「かくの如くである・これに相違ない・そうにちがいない」 などの意です。 ▶如

 

【概意】
君がこれを諸に諮れば、生れ付きが聡くて これを理解するモモソ姫が君に申して、
「これしるし。タケハニヤスの背くなり。我の聞く所、妻のアタ姫が香山の埴を領巾に入れ、
それに思いを通じて国のモノザネとなしたという。これに相違ない。急ぎ対策せよ。」



―――――――――――――――――――――――――――――
 もろはかるうち はやすてに たけはにやすと あたひめと
 いくさおこして やましろと つまはおおさか みちわけて
 ともにおそふお みことのり いさせりひこお おおさかえ
 むかひあたひめ うちやふり ついにころしつ
 おおひこと ひこくにふくと むかわしむ

―――――――――――――――――――――――――――――
 諸 謀る内 はや既に タケハニヤスと アタ姫と
 軍 起して 山城と 妻はオオサカ 道分けて
 共に襲ふを 御言宣 「イサセリヒコを オオサカへ」
 向かひアタ姫 討ち破り ついに殺しつ
 オオヒコと ヒコクニフクと 向わしむ

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■オオサカ (合境・逢坂・大阪)
オオ は オフ(合ふ・逢ふ) の名詞形、サカ(境) は 「区切り・区画」 です。
「2つの国が接する区画」 の意で、「大和国と河内国の境界の地」 をいい、
現在の 奈良県香芝市の逢坂(おうさか) 付近と考えます。
二上山の北側を奈良に入る道は、古く “大坂道” と呼ばれました。

 オオサカ にも色々あって、ホツマには3種の オオサカ が登場します。


襲ふ (おそふ)
オス(押す)+ソフ(添ふ) の短縮で、「押し寄せる・押し迫る・圧迫する」 などが原義です。


イサセリヒコ・ヰサセリヒコ
情勢不穏になった西国安定のため、孝霊53年に、播磨ヒカワ に派遣されています。 ▶系図

 
■ヒコクニフク・ワニクニフク
春日親王 (=アマタラシヒコクニ) の曾孫で、オケツの子です。
“ワニクニフク” とも呼ばれ、この時の春日県主と思われます。
記紀には 日子国夫玖命 / 彦国葺命 と記されます。

 孝昭天皇┬春日親王┬チチハヤ┬オケツ──────┬ヒコクニフク
     │    │    └ヤマカ姫[典侍]  └オケツ姫[典侍] 
     │    │       │         │
     │    │       │         ├─ヒコヰマス(斎名アリスミ)
     │    └オシ姫[内宮] │         │
     │      ├───孝霊天皇─孝元天皇─開化天皇
     └─────孝安天皇

 ヒコクニ/ワニクニ は 「調和する地」 の意で、春日県=添県 の換言と考えます。 ▶春日 ▶添
 フク は フク(葺く) の名詞形で、「覆う者・包む者・統べる者」 を意味します。

 

【概意】
諸臣が対応を協議する内、既にタケハニヤスとアタ姫は軍を起して、
ハニヤスは山城から、妻はオオサカから、二手に道を分けて同時に都に迫れば、
君は 「イサセリヒコをオオサカへ」 と御言宣。
向かったイサセリヒコは アタ姫を討ち破りついに殺せば、
オオヒコとヒコクニフクとを 山城に向わせる。



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 ひこくにふくは やましろの わにたけすきに いんへすえ
 つはものひきて いくさたて きかやふみむけ
 てかしわの いくさまつかつ ならさかそ
 またおおひこは しもみちに わからあくらと あひいとむ

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 ヒコクニフクは 山城の ワニタケスキに 斎瓮据え
 つはもの 率きて 軍立て 木茅 踏み平け
 手柏の 戦まず勝つ ナラサカぞ
 またオオヒコは 下道に ワカラアクラと 合ひ挑む

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山城 (やましろ)

■ワニタケスキ
ナラヤマ(平山・平城山) の頂上」 を意味するものと考えています。
ワニタケ(丸岳) = なだらかな山 = ナラヤマ(平山・平城山)。
スキ は スグ(▽優ぐ・勝ぐ) の名詞形で、「勝る所・高み・頂き」 です。

 ★ワニ (和珥・和邇・丸邇・丸)
 ワヌ(▽和ぬ) の名詞形で、「和(やわ)すさま・ゆるやか・なだらか」、また
 「まろやか・丸っこいさま・角がないさま・輪形・円形」 を意味します。
 おそらく ワニ は ワン(椀・湾・腕) の原形で、エン(円) の変態でしょう。


斎瓮 (いんべ)
かつて神武天皇は 「神を祭れよ 香具山の 埴の枚手に ヒモロケ」 という夢の告げに従い、
斎瓮を造って神を祭り、敵軍との戦いに勝利します。
以来、斎瓮は戦勝祈願に欠かせないものとなったようです。


■つはもの・つわもの (鍔者・兵)
ツハ/ツワ(鍔・唾)+モノ(者) で、「はみ出る者・抜きん出る者・抜群の者」 を意味します。 ▶鍔


■木茅 (きかや)
「木草」 の換言です。 ▶カヤ(茅・萱)


手柏 (てがしわ・てがしは)
この場合は テアワセ(手合せ) の換言で、「初の対戦・初戦」 を意味します。


■ナラサカぞ
これは ナラサカ(▽平境) という地名の、もう一つの由来を説明していると思われます。
つまり 「木茅を踏み ‘平’ けて 敵を ‘平’ らげた場所ゆえに ‘平境’ ぞ」 ということです。


■下道 (しもみち・しもぢ)
「下つ道」 をいうものと思います。 ▶下つ道


■ワカラアクラ
これについては手がかりなしです。
日本書紀は 輪韓河(わからがわ) と、川の名にこじつけていますが、人の名だろうと思います。

 

【概意】
ヒコクニフクは山城のワニ岳の頂きに斎瓮を据え、
つわものを率いて軍を立て、木草を踏み平けて、手合せの戦にまず勝つナラサカ(平境)ぞ。
またオオヒコは下道で ワカラアクラと対戦する。



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 はにやすひこは かわきたに ひこくにふくお みていわく
 なんちなにゆえ こはむそや
 くにふくいわく これなんち あめにさかふお うたしむと

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 ハニヤスヒコは 川北に ヒコクニフクを 見て曰く
 「汝 何ゆえ 拒むぞや」
 クニフク曰く 「これ汝 天に逆ふを 打たしむ」 と

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■川北 (かわきた)
この場合は 「木津川の北側」 ということでしょう。


天 (あめ) ■逆ふ (さかふ)

 

【概意】
ハニヤスヒコは川北にヒコクニフクを見て曰く、
「汝は何ゆえ拒むぞや?」
クニフクは曰く、「これ汝が御上に逆らうのを打たしめるなり」 と。



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 さきあらそいて はにやすか いるやあたらす
 くにふくか いるやはあたる はにやすか むねうちころす
 そのいくさ やふれにくるお おひうては
 わきみわきみと なかれさる いくさおさめて みなかえる

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 先争いて ハニヤスが 射る矢 当らず
 クニフクが 射る矢は当る ハニヤスが 胸撃ち殺す
 その軍 敗れ逃ぐるを 追ひ討てば
 「我君 我君」 と 流れ去る 軍 収めて 皆 帰る

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【概意】
両者が先を争って矢を放てば、ハニヤスの射る矢は当らず。
クニフクが射る矢は当り、ハニヤスの胸を撃ち殺す。
敗れて逃げるハニヤス軍を追撃すれば、「我君が・・・、我君が・・・」 と、
叫びながら流れ散ったため、軍を撤収して皆帰る。



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 めつきはつひに みことのり
 うちはむけれと とつあるる よみちのいくさ たつへしと
 すえふかにたつ よものをしゑと

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 十月初日に 御言宣
 「内は平けれど 外つ粗るる 四道の軍 発つべし」 と
 二十二日に発つ 四方の教え人

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■内 (うち)
ここでは 「中央」、すなわち 「大和国内」 あるいは 「畿内」 を意味します。


■平ける (むける)
ムク(平く) の連体形です。 ▶平く


■外つ荒るる (とつあるる)
トツ(外つ) は トツクニ(外つ国) の略で、「地方の国々」 をいいます。
アルル(荒るる・粗るる) は、ムケル(平ける) の反対語で、「平穏に治まっていないさま」 をいいます。


■四道の軍 (よみちのいくさ)
崇神10年7月24日 に発せられた御言宣による、
「北陸道・東海道・山陽道・山陰道 への派遣団」 をいいます。

(1) オオヒコを治人とする北陸道への派遣団。
(2) タケヌナガワを治人とする東海道への派遣団。
(3) キビツヒコを治人とする山陽道への派遣団。
(4) タニハチヌシを治人とする山陰道への派遣団。

 オオヒコをして 越の治人 タケヌナガワを ホツマ治人 キビツヒコして 西南の治人
 タニハチヌシを 丹波治人 “教え受けずば 綻ばせ” ヲシテ賜り 軍立ち 
〈ホ33ー3〉


■四方の教え人 (よものをしゑど)
ヨモ(四方)は ヨミチ(四道) の換言です。
“教え人” は 「民を治す法である “神纏り” を教える人」 という意で、ヲシ(治人) の換言です。

 民治す教え “神纏り” やや汚穢更れど 外つ国 粗人 法を まだ迎けず
 故
四方に治人 遣はして 法 教えしむ 
〈33アヤー3〉

 

【概意】
<崇神10年> 10月1日に御言宣。
「畿内は治まれど 地方の国は荒れている。四道の軍は発つべし」 と、
10月22日に出発する四方の教え人であった。

 

本日は以上です。それではまた!

 

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