多遅麻。
他の文献では、当芸志比古命。多芸志比古命。武石彦などとなっている。
懿徳天皇とイイ姫の子。斎名:タケシヰ。
タケアシに生まれる。
カヌナカワミミ┐ │ ├タマテ(安寧天皇)┐ │ ├─────オオヤマトヒコスキトモ │ヌナソ姫────┘ ┃ (懿徳天皇) │ ┃ └イキシ───────────アメトヨツ姫[内宮]─────(1)カヱシネ ┃ (孝昭天皇) シギ県主ヰデ────────ヰヅミ姫[典侍] ┃ カスガ県主フトマワカ────イイ姫[勾当]────────(2)タヂマ
★『書紀・旧事』武石彦奇友背命(たけしひこくしともせのみこと)。
★『古事記』第四代懿徳天皇の第二皇子、多芸志比古命(タギシヒコノミコト)
は、血沼之別(チヌノワケ)、多遅麻(タヂマ)
の竹別(タケノワケ)、葦井(アシヰ)
の稲置の祖。
■奈良県磯城郡三宅町に「但馬」の地名あり。
兵庫県城崎郡竹野町竹野馬場町、鷹野
(タカノ) 神社
『イイ姫が タケアシに生む タヂマ御子 斎名タケシヰ』31文
但馬。
崇神天皇の時代にアメヒボコが来日し、但馬の出石を根拠地とする。5世の孫のタジマモリ(田道間守)は垂仁天皇の臣となり、トコヨ国の偵察に赴くが、彼の名は「但馬守」であり、但馬の国の国守であったことが伺える。
国名としての但馬の表記は、ホツマツタヱでは常に「タチマ」ではなく「タシマ」である。
【但馬】たぢま −Wikipediaより−
但馬国は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に位置する。別称は但州(たんしゅう)。領域は現在の兵庫県北部にあたる。『延喜式』での格は上国、近国。
国府は、『和名抄』および『拾芥抄』によると、気多郡にあった。初期の国府の所在地には、豊岡市出石町の袴狭(はかざ)遺跡にあてる説と、気多郡、現在の豊岡市日高町のどこかにあったとする説とがある。
兵庫県出石郡出石町宮内、出石 (イズシ)
神社
兵庫県洲本市由良生石崎、出石 (イズシ)
神社
兵庫県豊岡市三宅、中嶋 (ナカジマ)
神社
『昔 ヒボコが 土産物 ハホソ
アシタカ ウカカ珠 イツシ小刀 イツシ矛 霊鏡 奠の胙据 イテアサの太刀』35文
『この八種 但馬に納む』35文
『君 許されば アメヒボコ 宇治川上り アワ海の 端村に住む また更に
若狭巡りて 住む但馬』35文
『ユカワタナ 鵠
飛ぶ方 追ひ尋ね 但馬路 出雲 ウヤヱにて ついに捕り得て 十一月二日 ホンツの御子に 奉る』36文
『新羅御子 ヒボコが苞の 宝物 但馬にあるを いま見んと ヒボコが曽孫 キヨヒコに 差使遣れば 奉る』37文
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