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一から学ぶ ほつまつたえ講座 第95回 [2023.12.16]

第十七巻 神鏡ヤタの名の文 (8)

著者:おあずけ2号 (駒形一登)
著者HP:ホツマツタエ解読ガイド https://gejirin.com

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 かんかがみやたのなのあや (その8)
 神鏡ヤタの名の文 https://gejirin.com/hotuma17.html
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 われみるに ひとのみやひは なさけゑた あめよりさつく
 たまとしゐ むすふゐのちの たまなかこ うむちはきもそ

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 我見るに 人のミヤビは 情枝 陽陰より授く
 魂と魄 結ぶ命の 霊・中子 潤む霊は肝ぞ

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ミヤビ
これについて今からアマテルが語りますが、「肉体と心を結ぶネット」 として説明しています。


■情枝 (なさけゑだ)
「情を伝える枝」 という意です。
“枝” は ここでは 「枝分かれ・網・ネット」 を意味します。
ですから 「感情伝達ネット・人のインナーネット」 とでもいうべきでしょうか。


■陽陰より授く魂と魄 (あめよりさづくたまとしゐ)
アメ(陽陰)は ここでは特に 「日と月」 をいいます。
“魂” は日を起源とする陽霊 (=日の神霊)、“魄” は月を起源とする陰霊 (=月神霊)
という意味です。 ▶魂と魄


■結ぶ命の霊・中子 (むすぶゐのちのたまなかご)
魂と魄が 「結んで生む、命そのものである霊(=中子)」 という意で、
「魂と魄の結合が人の生命と心情を生ずる」 ことをいいます。

 “結ぶ” は 「魂と魄が結んで(結合して) 結ぶ(生む) 命」 と、2重に使われています。
 “霊” と “中子” はどちらも 「心」 の換言です。

 陽陰 日月 魂魄 =  中子


■潤む霊は肝ぞ (うむちはきもぞ)
チ(霊)は タマ(霊)の換言で、「霊(=心・中子)を養生するのは肉体の臓器ぞ」 という意です。
臓器が 霊(=中子・心) を養生する理由は後に説明されます。

 ウム(▽潤む・熟む) は 「高める・勢いづける・潤す・養生する」 などの意。
 キモ(肝)は 「重要な所」 を意味し、この場合は 「主要臓器」 をいいます。
 特に 「肝臓」 を指す場合もありますが、ここでは違います。

 

【概意】
我が見るに、人のミヤビは “情を伝えるネット” である。
陽陰(日月)より授かる魂と魄が結合して生むのが、命そのものである “霊”、
すなわち中子であるが、それを養生するのは体の臓器なのである。



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 しゐのねは むらとこころは ふくしゆふ よくらよこしや
 ねのむくら わたるみやひか ものおしる

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 魄の根は ムラト・ココロバ フクシ・ユフ ヨクラ・ヨコシや
 根の六臓 渡るミヤビが ものを知る

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■魄の根 (しゐのね)
「肉体の根源・身体の根本」 という意です。
これは 「人体の主要臓器」 をいい、上記のキモ(肝)と同じです。

 ★魄 (しゐ・しい)
 シモ(下)・スヱ(末)・スイ(垂) などの変態で、「下」 が原義です。
 これは天地創造の際、重くて下に降っていった 「陰」 を起源とし、
 “魂魄” と言う場合の “魄” は 降っていった 「陰の霊」 を意味します。
 陰の霊は さらに下ると、自分の重力で凝り固まって物質化しますが、
 ここに言う “魄” は 「陰霊の凝固」 のことで、「肉体」 を意味します。


ムラト (腎)
「腎臓」 の古名です。“むら”  “あふみ” とも呼ばれます。

・七月 臓・腎(くら・むら) 八月 腑 〈ホ14-4〉
・七月 血を煮て 五色埴 これ臓腑と 腎(あふみ) 成す 〈ホ16-3〉


■ココロバ (心派)
これは 「心臓」 をいうのでしょう。“心派” は 「中心からの枝分かれ」 が原義ですが、
心臓から分岐する血管の姿をイメージすれば、まさにそれであるように思います。


■フクシ
「肺」 をいうようです。辞書には “フクフクシ” とあります。


■ユフ
今日この名は残っていないようですが、消去法で考えると 「肝臓」 です。
これを キモ(肝) という場合もあります。


■ヨクラ
これも名は残っていませんが、消去法で考えると 「すい臓」 です。

 ★参考 『Wikipedia “脾臓” より抜粋』
 東洋医学でいう五臓(肝・心・脾・肺・腎)の一つである 「脾」 は
 「脾臓」 とは異なっている。五臓の 「脾」 は主に消化吸収などを担って
 おり、解剖学的に対応する臓器はむしろ 膵臓(すいぞう) である。
 これは脾臓と膵臓を別の臓とは考えず、ひとつの臓(脾臓+膵臓=脾)と
 考えられていたのではないかという説もあるが、正確な理由は現在も
 わかっていない。


ヨコシ (脾)
「脾臓」 の古名です。


■根の六臓 (ねのむくら)
“根” は 「魄の根」 ということです。
“六臓” は 上記の 「ムラト・ココロバ・フクシ・ユフ・ヨクラ・ヨコシ」 です。
心派の六端人の六根六宗 とも呼ばれます。

 なお “六臓” は場合によって、五臓(ゐくら)、五腑(ゐわた)、六腑(むわた) とも呼ばれます。


■渡るミヤビ (わたるみやび)
「中子/心から六臓へ渡るミヤビ」 という意です。


 したがっておおまかに言えば、ミヤビとは 「心と臓器を連絡する通信線」 であり、
 さきの “情枝” であるという説明と合わせて考えれば、
 「心と肉体を結んで情を伝達する通信ネット」 ということになります。

 ここで注意が必要なのは、“人の中子も人ふたり”、すなわち 中子/心の2重構造 です。
 これは 「人の心・人情」 が 「神の心・神性」 をすっぽりと覆っているさまをいいます。
 人の心は 魂と魄を 霊の緒 で結ぶことにより生じますが、問題なのは、人の心と神の心は
 接続が無いということです。つまり 神の心からは人の心が見えるのですが、人の心は
 神の心の存在すら知らず、通信不能です。そこでミヤビの出番です。
 ミヤビは六臓と人の心を結び、さらに人の心を突き抜けて神の心まで通じているため、
 ミヤビを介して 肉体・人の心・神の心 の3つが連絡します。
 (それでも 人の心と神の心の直接通信は不可)。

 

【概意】
魄(=肉体)の根は ムラト(腎臓)、ココロバ(心臓)、フクシ(肺)、
ユフ(肝臓)、ヨクラ(膵臓)、ヨコシ(脾臓)である。
中子から根の六臓へと渡るミヤビがものを知るのである。



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 なさけなかこに かよえると たとえはくせと まいなひて
 さかゐまさんお とみもほし とりひきまして よろこへは
 へりにくむたみ またつよく ねかえはいかる とものおみ
 せまるおゑらみ わけかえす めくみよろこふ まけにくむ

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 情 中子に 通えると 例えば曲人 賄ひて
 栄い増さんを 臣も欲し 取引増して 喜べば
 減り憎む民 また強く 願えば 怒る 朋の臣
 迫るを選み 分け還す 恵み喜ぶ 負け憎む

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■曲人 (くせど)
「曲った人・それた人・ずれた人」 の意で、ハルナの言う “スリ”  “サソ” の同義語です。
この場合は 「政府御用達の悪徳商人」 をいうようです。


賄ふ (まいなふ)

■迫る (せまる)
ここでは 「近づく・寄り付く・仲間になる/する」 などの意です。


■分け還す(わけかえす)
「分け前を回す」 という意です。


■恵み喜ぶ負け憎む (めぐみよろこびまけにくむ)
「初めは収賄の利を喜び、後には同僚に削り取られた損を憎む」 という意です。

 

【概意】
感情がミヤビによって中子(=神の心)に伝えられると、 …
例えば曲者の商人が贈賄して栄えを増やそうとする。
役人もそれを欲して合意し、取引が増えて喜んでいると、
それによる取引の減少を嫌う他の商人が 再度強く願い出て、
同僚の役人が不正に気づき怒る。
仲間にして口を封じようと、分け前を回す。
初めは収賄の利を喜び、後には同僚に削り取られた損を憎む。


 この喩え話で何を言おうとしているのか、非常に判りづらいのですが、
 結局 「“利” を欲する人の心に対して、神の心は “損” の思いを返す」
 ということではないかと思います。つまり 人の心がある方向に傾く/曲ると、
 神の心は反対方向に作用して、その傾き/曲りを修正するということです。

 これが 己が鋭き 逆り欺く 報ひあり〈ホ17-7〉 の意味であり、
 また みな翻る この鏡 何のためぞやホ17-3〉 の答えです。
 すなわちこれが “マス鏡”  “裏鏡” の原理なのです。

 今日的には、神の心は 「良心」、その反作用は 「呵責」 と考えていいかと思います。
 この喩えでは、他の商人が再び強く願い出た時、おそらく良心の呵責により
 肉体 (言葉や表情) に異変が表れたのでしょう。それを見た同僚役人が不正を嗅ぎ付け、
 それに分け前を回す羽目となり、結局は利が損へと転じます。



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 きみめすおそれ たたされて かるるかなしさ
 もろこえと きみのいかりに またゆりす 
 かなしきのちの いさおしと もろかもらえは ゆるさるる
 おそれはまとひ あらためて まめなることし

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 君召す 怖れ 正されて 枯るる悲しさ
 諸乞えど 君の怒りに まだ許りず
 悲しき “後の 功” と 諸が守らえば 許さるる
 怖れば惑ひ 改めて 忠なる如し

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君 (きみ)
この場合は 「収賄した役人の上司・責任者」 をいいます。


諸 (もろ)
「収賄した役人の同僚の役人たち」 をいうものと思います。


■後の功 (のちのいさおし)
「一度は罪を犯したけれども、長〜い目で見て将来の忠功に期待して下さい」
というような意で、多く 第三者が犯人の罪の減免を請う時に用います。


■守らふ (もらふ)
モル(守る)+アフ(合ふ) の短縮で、「守り合う・世話し合う・見張り合う」 などの意です。
ここでは 「諸が連帯して保証する」 という意味です。


■惑ひ (まどひ)
マドフ(惑ふ)の名詞形で、「曲り・それ・外れ・狂い」 などの意です。

 ★惑ふ (まどふ)
 マツ(▽曲つ)+トフ(▽外ふ・▽遠ふ) の同義語短縮で、
 「曲る・それる・ずれる・外れる・狂う」 などの意です。


忠 (まめ)

 

【概意】
ある時 上司に呼び出されると、
「バレたか」 という恐怖に正され、自供して枯れる悲しさ。
同僚たちは赦免を願うも、上司の怒りにすぐには許されない。
悲しき “後の功” と、皆が連帯で保証してようやく許される。
恐れれば、曲りを改めてまっすぐになるようである。


 この喩えでは、不正を働くと 神の心の反作用 (良心の呵責) によって、
 恐怖の思いが付きまとい、常にビクビクしていることを言ってます。
 その状況から逃れたいという思いは、何らかの機会を得ると 正直に
 自供することを促します。さきの盗人の例と同じパターンです。

 己が胸 騒ぎあるより 言 震え 見目に表れ
 その主は 故に問ひ詰め 九々さとし また心問えば つい語る 〈ホ17-6〉



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 まとえるも みやひなかこに つけおけは ひとうつときは
 いたみしる そしれはうらみ うつわもの ぬすまはおしむ
 そこなはは しむのいたみも しるなかこ

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 惑えるも ミヤビ 中子に 告げおけば 人打つ時は
 痛み知る 誹れば恨み 器物 盗まば惜しむ
 損なわば シムの痛みも 知る中子

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■惑える (まどえる)
マドフ(惑ふ)の 「終止形+える」 の形の連体形です。


■損なふ (そこなふ)
「身体を害す・健康を損なう」 という意味です。


器物 (うつわもの・うつはもの)

■シムの痛み (しむのいたみ)
シム(▽親)は 「近しい人・親族・身内・家族」 などを意味します。
ですから 「親族の痛手・家族の心痛」 などの意です。

 

【概意】
人の心が曲り外れても、ミヤビはそれを中子に伝えているため、
〈神の心の 修正機能/良心の呵責 が働いて〉
他人を打てば 打たれた人の痛みを知り、〈以後打てなくなる〉
他人を誹れば 謗られた人が抱く恨みを知り、〈以後謗れなくなる〉
器物を盗めば〈盗まれた人の口惜しさを知り〉物を惜しむようになる。
健康を損なえば、その家族の痛みまでも承知している神の心である。



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 こころはあしき わさなせは みやひなかこに つくあわれ
 ひとかひとうつ ころすおも みれはのそかん おもひあり
 ころふもおこす あわれゑた

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 心派悪しき 業なせば ミヤビ 中子に 告ぐあわれ
 人が人打つ 殺すをも 見れば除かん 思ひあり
 転ぶも起す あわれ枝

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■心派悪しき業 (こころばあしきわざ)
「気分の晴れない所業・後味の悪い行い」 をいいます。

 “心派” は 「中心からの枝分かれ」 が原義で、この場合は
 「心から分れ出るもの/湧き出るもの」、つまり 「人情・感情」 を意味します。
 心情・感情は 神の心からではなく、「人の心から発するもの」 であることに
 注意が必要です。


■あわれ枝 (あわれゑだ)
アワレは 「心に感じ入るもの/さま」 を表し、この場合は “心派” (人情・感情) の換言です。
したがって “あわれ枝” は “情枝” と同じです。

 ★あわれ (哀れ)
 まだ思案中ですが、アフ(合ふ)+ハル(貼る) の短縮 “あわる” の名詞形で、
 「(心に) 貼り付いて離れないさま・感じ入るさま」 を原義とし、
 「いたわるさま・いとおしむさま・いたましく思うさま」 を意味すると考えています。


■転ぶも起す (ころぶもおこす)
「(人の心が) 転んでも起こす」 という意です。

 

【概意】
気持ちの晴れない行いをすれば、ミヤビは中子にその感情を伝える。
〈すると神の心の修正機能/良心の呵責 が働いて〉
人が人を打ち、殺そうとするのも、見れば防ごうとする思いさえ湧くのである。
転んでも起こす情枝。〈それがミヤビである〉


  
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 ましてわかみは みやひより むねにとほれは あやしなく
 みおをさむれと こころはは おこりおきけは ほしにしむ

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 まして我が身は ミヤビより 宗に通れば 怪しなく
 身を治むれど 心派は 奢りを聞けば 欲に染む

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■宗 (むね)
ムネ(宗・胸・旨・棟)は 「中心・核心・頂」 を表し、
この場合は 「神の心・神性」 の換言です。


■我が身はミヤビより宗に通る (わがみはみやびよりむねにとほる)
「アマテルのシステムは ミヤビから直接 中子(神の心) に通じる」 という意です。 ▶身


■怪し (あやし:名詞)
アユ(肖ゆ)+ヤス(▽和す) の短縮 “アヤス” の名詞形で、
「まじり・紛れ・混交」 などを意味します。
”怪しなく” は 「紛れもなく・間違いなく・誤りなく」 などの意です。


■心派 (こころば)
「人の心・人情・感情」 をいいます。
人の心は タマノヲ(霊の緒)を介した 魂と魄の結合が生じさせているため、
“心派” はタマノヲの別名でもあります。


 トヨケの2度目の過去生が その人生を終えて天上界に還った時、
 人間にタマノヲを付けることになります。

  二世 ムスビの 百万寿 逝きて霊の緒 なすを聞く 〈ホ13-4〉

 これにより ウビチニ&スヒヂ以降の人間は、魂と魄をタマノヲを介して結ぶことになり、
 その結果として、魂と魄はつながってはいるものの、融合一体化しなくなりました。
 これにより人には男女の区別が生じ、また 「人の心・人情・感情」 というものが生れます。

 アマテルの場合はおそらく例外的に、タマノヲを介した魂魄結合ではなく、
 かつてのクニトコタチと同様、魂魄が融合一体化していたと考えられます。
 これが “我が身はミヤビより宗に通れば” の意味で、そうするとアマテルは
 普通の人間が持つような 「人の心・人情・感情」 を持たないということになります。

 

【概意】
まして我が身はミヤビより中子に直に通じるため、誤りなく身を治めるが、
人の心は 他人が奢るさまを見聞きすれば 欲に染まる。



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 あちもいろめも よこしまに しゐにあやかり みおからす
 ほしもそそけは あちなおり いせのみちなる

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 味も色目も よこしまに 魄に肖り 身を枯らす
 欲も濯げば 味直り 妹背の道 生る

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■味 (あぢ) ■色目 (いろめ)
上にいう “欲” の代表的なものとして、「食欲」 と 「色欲・性欲」 をあげています。


よこしま (邪・▽汚染・▽横様)

魄 (しゐ)

肖る (あやかる)

濯ぐ (そそぐ)


■味 (あぢ)
アヂ(味)は「本質・精髄・エッセンス・スピリット」などが原義です。


妹背の道 (いせのみち)
この場合は 「調和の道・中庸の道」 の意です。

 

【概意】
食欲も色欲もよこしまに体に交わり、人のシステムを損ねる。
しかし欲も 濯げばその本質が直くなり、調和の道が備わる。



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 いさむとも ぬすむこころは みやひより ゐくらにつけて
 やすからす みめにことはに せくくまり ぬきあしこたふ
 はにこころ よろますしれと みやひから

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 勇むとも 盗む心派 ミヤビより 五臓に告げて
 安からず 見目に言葉に せくぐまり ぬき足 応ふ
 埴 心 万・十万知れど ミヤビから

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■勇むとも (いさむとも)
これは 「たとえ勇んで良心の呵責には打ち勝っても」 という意です。


■五臓 (ゐくら)
ここでは肉体の根本である 「根の六臓」 と同じです。


せくぐまる

ぬき足 (ぬきあし)

■万・十万 (よろます)
ヨロ(万)は 「10,000」、マス(枡・升)は 「100,000」 を表す数詞です。

 

【概意】
たとえ勇んで良心の呵責には打ち勝っても、盗む心情〈に対する中子の反作用が〉
ミヤビから五臓に伝えられるため、身体が楽でない。
それが外見にも言葉にも表れ、縮こまってぬき足で歩くという反応となる。
埴神は 1万・10万の人心を掌握するわけであるが、結局それは人のミヤビから。


 盗もうとする心に対して、中子(=神の心)の修正作用が働き、それをミヤビが
 根の六臓(=五臓)に伝えると、人の心には良心の呵責が起きます。
 ここで心を改めれば問題は解決なのですが、欲望が呵責に打ち勝って
 さらに盗みを続けると、今度は根の六臓が衰弱して身体に障害を起すというわけです。
 これが 2度の盗みでせくぐまってぬき足となり、3度目には身体を損なう理由です。

 ・隠し盗むも 身に添ふる 風より陽陰に 告ぐるなり
  二の盗みは 
せくぐまり ぬき足なすも 〈ホ17-6〉
 ・三度 損なふ 己が胸 騒ぎあるより 
言 震え 見目に表れ
  ・・・ ・・・ 心問えば 
つい語る 〈ホ17-6〉



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 ときすきてなる はたれとも それこころみに わさおなせ
 われはやのそく みやひあり これまつかやの にへなるそ
 みやひなけれは みもかるる かれていろほし なんのためそや

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 鋭き過ぎて生る ハタレども それ試みに 技をなせ
 我 早や除く ミヤビあり これ松・榧の 膠なるぞ
 ミヤビなければ 身も枯るる 枯れて色欲 何のためぞや

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鋭き (とき)

■技 (わざ)
むかし六ハタレが使った 「幻術・トリック」 をいうのではないかと思います。

・ハタレシムミチ なす技に 山川あぶれ 大蛇が 炎を吐きて 驚かす〈ホ8-3〉
・諸に授けて 呪えば ハタレのモノの 技 成らず 〈ホ8-3〉


■膠 (にべ)
ニフ(▽和ふ)の名詞形で、「合わせ・付き・接着」 などを原義とし、
「べたべたするもの・糊・接着剤」 を意味します。“膠” は筆者の宛字です。
この場合は 「松や榧のヤニ(樹液)」 をいいます。

 木に外傷があるとそこから樹液が分泌され、有害虫の侵入を防ぐ効果を
 発揮するのですが、この木の免疫システムを人のミヤビに喩えています。

 人の場合は、曲った心を改めずにいると、ミヤビによって中子の反作用が
 主要臓器に伝達されて身体に障害を引き起こし、その難儀・苦痛が人の心に
 反省・自白を促すというしくみです。

 

【概意】
鋭利さが過ぎて生れるハタレどもよ。それ試みに術をかけてみよ。
我には素早くそれを除くミヤビがある。これは松・榧のヤニと同じぞ。
ミヤビがなければ身も枯れる。枯れて色欲 何のためぞや。

 

 

本日は以上です。それではまた!

 

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