【須恵器・陶器】スヱキ −広辞苑より−
古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた、大陸系技術による素焼の土器。良質粘土で、成形にはろくろを使用、あな窯を使い高温の還元炎で焼くため暗青色を呈するのが一般。食器や貯蔵用の壺・甕が多く、祭器もある。祝部(いわいべ)土器。斎瓮(いんべ・いわいべ)。
■神武の頃から俄に斎瓮を神に奉って祈願する、あるいは斎瓮の水で禊する、という事が行われるようになる。考えてみるとそれ以前には陶器に関する記述は見られない。神武の頃から興隆したと考えるべきか。
『斎瓮を造り 丹生川の ウタに写せる 朝日原 アマテル・トヨケ 二祭は ミチオミぞ』29文
『"日の神使 ミチヲミと 月の使は アタネなり 星の使は アメトミ"
と 斎瓮 賜わり 禊なす』30文
『ヒコクニフクは 山城の ワニタケスキに 斎瓮据え 兵
率きて 軍立て 木茅踏み平け 手柏の 戦まず勝つ 奈良坂ぞ』34文
斎部臣 (斎瓮臣)。 斎部主 (斎瓮主)。
不詳だが、「斎瓮(陶器)の製造に関わるモノノベの司」に思える。
アメトミに始まるようだ。「アメトミ」という名が、そもそも「斎瓮臣」の意である。
空想だが、神武東征の運命を左右した香具山の埴の斎瓮、これを造った臣がアメトミだったのではなかろうか。
陶器は主に祭祀用だったことが、後の忌部氏につながったように思われる。
インベ臣(アメトミ)は神武の大嘗会で、祝詞を宣んしている。
孝霊天皇により、インベ主は情勢不穏になった西国安定のため、ヰサセリヒコと共にチノクチと播磨のヒカワに派遣される。
★『Wikipedia』古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とする。その子孫は後に斎部を名乗る。中臣氏と勢力を争ったが、あまり振るわず、次第に衰退していった。
『ウマシ モノベと 門を守る ミチヲミ
クメと 御垣守 上宣言は 斎瓮臣』30文
『五十三年 西中負えず チノクチと 播磨ヒカワに 斎瓮主 ヤマトヰサセリ これに添え』32文
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