ヤマトタリヒコクニ

→ 語義
  

日本足彦国押人尊。 
第6代孝安(こうあん)天皇。 
カヱシネ
(5代孝昭天皇) ヨソタリ姫の第2子。 斎名:オシヒト。 
誕生のとき朝日が輝く。 
ムロアキツシマ
(室秋津島) に遷都。 
治世11年、スメラギ自身でカセフの祓いホヅミの祭りをなす。 
カヱシネの崩御から33年後に、ようやく亡骸をハカタの洞に納める。 
皇が死んだ時、その臣・后が殉死する事を法制化したらしい (天御子法)。 
スルガ宮
ハフリハラの絵を奉り、オオヤマトフトニ(7代孝霊天皇)が奏上するが、受け取らなかった。 
137歳で罷り、タマテ(玉手) に葬られる。アキツ神。 殉死者5人も一緒に納める。

  

          ┌アマタラシヒコクニオシ姫[内宮]───────オオヤマトフトニ
カヱシネ(孝昭天皇)┐│ (春日親君)      ┃            (孝霊天皇)
         ├┴────────ヤマトタリヒコクニ(孝安天皇)
ヨソタリ姫────┘             ┃
                       ┃
シギ県主ナガハヱ─────────────ナガ姫[大典侍]
                       ┃
トイチ県主ヰサカヒコ───────────ヰサカ姫[勾当]
  
  

内宮  :オシ姫 (春日親君 アマタラシヒコクニの娘)。 オオヤマトフトニを生む。
大典侍 :ナガ姫 (磯城県ナガハヱの娘)。
勾当ヰサカ姫 (十市県ヰサカヒコの娘)。
  

■上鈴291年(孝昭49年)生まれ。上鈴326年(35歳)即位。上鈴428年(137歳)崩御。
■臣についての記述なし。『臣后 皆とどまりて 喪に仕ふ』とあるので前帝から変化していないのか。
★『後漢書東夷伝』「倭国王師升等」が後漢に生口百六十人を献じた」と伝えています。この「國押人命」と同一人物と考えられます。「倭国王師升等」を「倭、国王師飛等」(倭のくにおしひと、「升」を「飛」の略字とする)と音訓混じりで読むと、墓碑から得られた「國押人」と偶然とは言えない確かさで一致しているのです。
★『旧事』三年の八月、宇摩志麻治命(うましまちのみこと) の子孫の六見命(むつみのみこと) と三見命(みつみのみこと) を共に足尼(すくね) とし、次いで宿禰(すくね) とする。
  

『四十九年 キミヱ初日に 生む 斎名オシヒト ヤマトタリ ヒコクニの御子 生む時に 朝日輝き』31文
『六十八年 一月十四日に オシヒトを 若宮となす 歳二十 翌日オシキネを 親君とし 春日を賜ふ』31文
皇子 神祭る 歳三十五 親に継がえて 民 治む』31文
『君 年毎の 八月五日 八夜の喪祭り 誠なるかな』31文
和つ日月を 受け継ぎて タリヒコクニの 和つ君 
斎名オシヒト 位 成る 飾りを民に 拝ませて』31文
磯城ナガハヱが ナガ姫を 大典侍后 十市ヰサカ ヒコヰサカ姫 内后 
長橋に居て ヲシテ守 総て十二なり』31文
『二年冬 室秋津島 新都』31文
叢雲 蝕虫を 付くれば の 自らに 祓ひ "カセフの 祭" なす 故 よみがえり 瑞穂充つ よりて "果実の 祭" なす』31文
『二十六年春 二月十四 春日親君の オシ姫を 入れて内宮 今年十三』31文
『三十三年後 八月十四 送る御上の 骸を 博多の洞に 納むなり』31文
『臣・侍の骸も みな納む  生きる三人も 追ひ罷る 陽陰御子法や』31文
『五十一年 九月初日 生む 
斎名ネコヒコ オオヤマト フトニの御子ぞ』31文
『七十六年 春一月五日 ネコヒコの 歳二十六 立つ 代嗣御子』31文
『九十二年春 駿河宮 ハフリ ハラの絵 奉る 御子申せども  受けず』31文
『御代百二年 一月九日  罷る 歳百三十七 皇子 喪還収む 四十八後 若宮に出で 政事』31文
『九月三日に 骸を 玉手に送り 五人追ふ 共に納めて "アキツ神" かな』31文

  

  

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