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一から学ぶ みかさふみ講座 第24回 [2022.8.26]
みかさふみ 還十二の后立つ文 (2)
著者:おあずけ2号 (駒形一登)
著者HP:ホツマツタエ解読ガイド https://gejirin.com
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こゑそふのきさきたつあや (その2)
還十二の后立つ文 https://gejirin.com/mikasa04.html
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としたあめみや こゑのみち みおまたくして なからえり
こかいもおなし くわのきは よもにさかえて
ゑたもねも みつまたなりて そふほすえ
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トシタ陽陰宮 還の道 身を全くして 永らえり
蚕飼も同じ 桑の木は 四方に栄えて
枝も根も 三つ又なりて 十二穂末
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■トシタ陽陰宮 (としたあめみや)
ホツマ国の都で、アマテルが生れたハラミ山麓の宮は、
ハラミの宮、ハラの宮、サカオリの宮
など、多くの別名がありますが、
“トシタ和宮” もその一つで、おそらく最も古い名です。
トシタ の ‘ト’ は トの尊 (とのみこと) をいい、天元神トホカミヱヒタメの
‘ト’ の神が
太古の昔、人として地上に降臨した時の名です。
シタは シツ(▽執つ)の名詞形で、「とり行うこと・知行すること」
をいいます。
アメミヤ(▽陽陰宮)は 今は 「アマテルの宮」
であることを意味します。
ですから “トシタ陽陰宮” は
「かつてはトの尊が知行したアマテルの宮」
というような意味です。そのためホツマ国は “トシタ国”
とも呼ばれます。
話は、アマテル(斎名ワカヒト)がヒタカミでの修学を終え、ハラミの宮に
帰って皇位に就かんとする時のことであり、ここに言う “トシタ陽陰宮”
は
「トシタ宮の主となる人・トシタの宮さま」 の意で、アマテル
を指します。
■還の道 (こゑのみち)
「循環の道・巡回の道」 という意ですが、
ここでは 「日と月が東西南北を 巡回して地上を恵む道」
をいいます。
“日月の道” と言っても良いと思います。
★還 (こゑ)
コヱ は コユ(越ゆ)
の名詞形で、カヱ(替・返・還) の変態です。
「巡る・回る・返る・転移する・循環する」
などの意を表しますが、
ここでは 「循環・巡回・ローテーション」
などを意味し、
この意味の場合は “還” と宛字しています。
■身を全くして永らえり (みおまたくしてながらえり)
「身を健全にして還の道に永らえるなり」 という意です。
★永らふ (ながらふ)
ナカラ(半ら)+アフ(合ふ・和ふ)
の短縮で、ナカラは 「なかば・途中」 の意。
これは “〜しながら” の ナガラ
と同一です。アフは 「(身を) 合わす」 の意です。
ですから 「(ある過程の)
なかばに身を置く・途中にある」 というのが原義です。
単に “永らふ” という場合、「世に生存する」
の意に使う場合がほとんどですが、
ここでは
「還の道の途上に居続ける・日月の恵みを与え続ける」
という意味になります。
アマテルが 月3回だけの食事に 苦きハホ菜を召したのは、
できるだけ永く人草を照らしたい、という思いからだったのでしょう。
・食
重なれば 齢なし ゆえに御神 月に三食 苦きハホ菜や
〈ホ1-2〉
・我が常の食 千齢見草 余の苦菜より 百々苦し
苦菜の食に 永らえて 民
豊かにと 国治む 〈ホ15-6〉
結果としてアマテルは 173万2500年 世に永らえたと記されています。
我は 民のため 苦きを食みて 百七十三万 二千五百年を 永らえて
〈ホ28-3〉
■蚕飼 (こかい・こかひ・こかゐ)
コカイには複数の意味があるのですが、
この場合は 「コ(蚕)
の カイバ(飼葉)」 の意で、
クワ(桑) の同義語と考えます。
■桑 (くわ)
クユ(越ゆ)
の名詞形で、これは コヱ(還) の変態です。
ですからやはり 「循環・巡回・ローテーション」
などが原義です。
この名の由来は、すぐ次で語られるように、クワの木の成長の仕方が
還の道 (=日月の道) に則っているためと考えられます。
■三つ又なりて十二穂末 (みつまたなりてそふほずえ)
四方(東南西北)に伸びる枝と根は、
「3つに分岐するため、穂末はそれぞれ12となる
(4方×3又)」
ということです。
クワを表す漢字 “桑” は 「3つの又の木」
と書きますが、
この一致はいったい何を物語っているのでしょうね。
【概意】
トシタの和宮(=アマテル君)は 身を健全にして
還の道(=日月の道)に永らえるなり。
蚕の飼葉も同じ。<やはり還の道(=日月の道)に則る。>
桑の木は東南西北の四方に伸び茂り、
枝も根も3つに分岐するため、それぞれ穂末は12となる。
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みもむそゐかの ひのめくり ひとせになりて
はるあきと よつにわかるる
くわのねも つきはそふたひ ほしにあい
なるそふつきは そふほすゑ
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三百六十五日の 日の回り 一年になりて
春秋と 四つに分かるる
桑の根も 月は十二度 星に合い
成る十二月は 十二穂末
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■春秋 (はるあき)
ここでは 「始めから終りまで」 の意を表します。
ハル(春)は ハエ(生え)の変態で、「始まり・スタート」
の意、
アキ(秋)は アク(上ぐ)の名詞形で、「あがり・ゴール・終り」
の意です。
ですから “春秋” は “始終・終始”
と同じです。
■桑の根 (くわのね)
桑に限らないのですが、植物の根は 夜潤波(よるなみ:月のエネルギー)に
よって成長すると、考えられていたようです。
桑の根の12の穂末と、1年が12の月から成ることの関係を説明しています。
ウケモチの 尊が食菜を 天に乞えば 日・夜潤種を 地に下す
日潤に生ゆる 潤の繁は 潤田の具え 夜潤波に 生ゆる和菜は 畑の種
〈ホ15-3〉
■月は十二度星に合ふ (つきはそふたびほしにあふ)
月は満ち欠けしながら、30日 (正確には29.5日) で その1循環を終えますが、
それを12回くりかえすと (ほぼ) 1年になることをいいます。
“星に合ふ” とは 「夜空の星々(小さな光の点)にまみれる」
ということです。
【概意】
365日の太陽の巡回は1年となり、
始めから終りへと四季(≒東南西北の四方)に分れる。
<また四季は3つの月(≒三つ又)に分れる。>
桑の根を育む月も 星々と12回まみえ、
そうして成る12ヶ月は 桑の根の12の穂末と同じ。
アマテルが坐す国を 還国(こゑくに) とか 還和す国(こゑやすくに)
と
呼ぶことがあります。
・アマテル神は 還国の イサワ大内の 宮に居て 〈ホ28-2〉
・これ君は 還和す国の 宮に坐す 〈ミ5アヤ〉
また中華伝説では日本を “扶桑(ふそう)国”
とも呼んでいますが、
クワ(桑)=コヱ(還) ですから、扶桑国=還国
だろうと思います。
【Wikipedia
“扶桑” より抜粋】 古くは『山海経』に見られるように、はるか東海上に立つ伝説上の巨木であり、 そこから太陽が昇るとされていた。太陽や天地にまつわる巨木としては若木や 建木などが共に記述として残されている。 古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア 「仙境=蓬莱山*・崑崙山**」 にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく 再生してくるという生命の樹 「扶桑樹」 にあやかろうとした。 |
*
ハラミ山のことを、略してハラ山ともいいますが、
ハラ山は後の世に 蓬莱山(ほうらいさん)
と呼ばれるものと同一のようです。
【蓬莱】ほうらい (デジタル大辞泉)
・中国の神仙思想に説かれる三神山の一。山東半島の東方海上にあり、
不老不死の薬を持つ仙人が住む山と考えられていた。
蓬莱山。蓬莱島。よもぎがしま。
・富士・熊野・熱田など霊山・仙境の称。
辞書の説明に言う “不老不死の薬” とは
「千齢見草」 をいうのだろうと思います。
次回の講座に出てきますが、千齢見草はハラミ山に生える3種の薬草の総称で、
別名を 「ハラの菜」 といいます。
** また 崑崙山(こんろんさん)は、西王母の住処と伝えられますが、
これは ホツマツタエで “コロ山”
と呼ばれるものと同一のようです。
西の母尊 また来たり 「コロ山下は 愚かにて 肉味嗜み
早枯れし 百や二百ぞ たまゆらに 千・万あれども 日々の肉
シナ君 “出でて 千齢見草 尋ぬ”
と嘆く」 〈ホ15-7〉
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むかしあまかみ ねおはみて みのししめくり さめまたく
いちこおはみて うるほえは なからひよよに たのしみて
つくれはかえす みはよもつ こころはあめに かえうまれ
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昔 天尊 根を食みて 身の肉 恵り 醒め全く
イチゴを食みて 潤えば 永らひ世々に 楽しみて
尽くれば還す 身は黄泉 心は陽陰に 還え 生れ
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■天尊 (あまかみ)
アマカミも複数の意味に使われ、紛らわしい用語の一つですが、
ここでは 地に降臨している
「ミナカヌシ+トホカミヱヒタメ8尊の総称」 で、
アメミコト(天尊)とも呼ばれます。
これに対して、上の9尊に継いで降臨した
「キツヲサネ+アミヤシナウ の11尊」 は
クニミコト(地尊) あるいは ワノミコト(地の尊)
と呼ばれます。
天尊が帰天しますと、アメノミヲヤはその神霊を星となしますが、
それを アメトコタチ(▽天疾立)、アマコノカミ(天九の神)、また
コヨノホシ(九節の星)、コホシ(九星)
などと呼びます。
・天に還れば ミナカヌシ およびヱ・ヒ・タ・メ ト・ホ・カ・ミも
天に配りて 星となす アメトコタチの 神はこれ 〈ミ6アヤ〉
・後
十一の君 キ・ツ・ヲ・サ・ネ ア・ミ・ヤ・シ・ナ・ウも 天に還り
サコクシロにて 御言宣 みな星となす 〈ミ6アヤ〉
■根 (ね)
還の道(=日月の道)が備わる 「桑の根」 です。
■身の肉恵る (みのししめぐる)
還の道(=日月の道)が備わる桑の根のエネルギーを
「身体に巡らせて恵む」 という意です。
★恵る (めぐる)
現在の メグル(回る・廻る・巡る)
には自動詞の意味しかありませんが、
ホツマの頃には他動詞の意味がありました。すなわち
「回す・めぐらす・
配る」 等の意です。そしてこれは 「恵む・ほどこす」
と同義となります。
用途は限定的で、「あちこち巡って恵む」
の意味で使う場合が多いです。
■醒め全く (さめまたく)
サム(覚む・醒む)+マタク(全く) の連結です。
サムは スム(澄む)・サユ(冴ゆ) の変態で、「研ぎ澄む/研ぎ澄ます」
の意、
マタクは マッタク(全く)の動詞形で、「健全・完全にする」
の意です。
ですから 「研ぎ澄ませて完全となす」
というような意です。
■イチゴ (苺・莓)
語源的に未解明ですが、イチジクと同源と考えてます。
ここでは当然 「桑の実」 をいうものと思います。
■潤ふ (うるほふ・うるはふ・うるわう)
ウル(熟る)+ハフ(栄ふ) の連結で、「上がる/上げる」
を原義とし、
「高まる・勢い付く・栄える・熟す・優れる」
などの意を表します。
■永らひ (ながらひ)
ナガラエ(永らえ)と同じで、「世に存在すること/期間」
をいいます。
■世々 (よよ)
人が輪廻転生する過程における 「個々の人生」 です。
■尽くれば還す (つくればかえす)
「寿命が尽きたら還す」 という意で、
何をどこに還すのか? については次に出てきます。
■身は黄泉 (みはよもつ)
「身(=肉体・骸)は黄泉に還る」 ということです。
ヨモツ(黄泉)は ヨミ(黄泉)の同義語です。これは場所的には
おそらく地球の 「地下・土の中」 をいい、「冥土」
と同じです。
肉体(形あるもの・物質)は “土にかえる”
ということでしょう。
ヨモツは ヨム(▽弱む)+モツ(没つ)
の短縮の名詞形で、
両語とも 「下がる・低まる・衰える・沈む」
などを原義とし、
これは 天地創造の過程で下降した
「陰・地」 を意味します。
ヨム(▽弱む)の名詞形が ヨミ(黄泉)です。
■心は陽陰に (こころはあめに)
ココロ(心)は ここでは 「魂と魄」
をいいます。
魂(たま)と魄(しゐ)を 霊の結(たまのを)で結ぶことにより、
地上生命と人の心が生じます。
・陽陰より授く 魂と魄 結ぶ命の 霊・中子 〈ホ17-6〉
・神とモノ 魂・魄 結び 霊の結と 〈ミ6アヤ〉
アメ(陽陰)は ここでは 「ムナモトとミナモト」
をいいます。
ムナモト(棟元)は 「陽の核心」、ミナモト(▽鄙元)は
「陰の核心」 の意で、
別名がそれぞれ 「太陽=日」 「太陰=月」 です。
ですから 陽霊である ‘魂’ は その故郷である 太陽=日
に還り、
陰霊である ‘魄’ は その故郷である 太陰=月
に還る、ということです。
・背のムナモト 日と丸め 妹のミナモト 月と凝り 〈ホ14-2〉
・霊還し なさば苦しむ 霊の結も 解けてムネカミ ミナモトへ
魂・魄
分けて 神となる 〈ホ13ー8〉
■還え生る (かえうまる)
「還ってまた生れる・死んでまた生れる・輪廻転生する」
ということです。
【概意】
昔
天尊は桑の根を食み、そのエネルギーを肉体にめぐらせ、
身を研ぎ澄まして完全となす。
また桑の実を食めば身は潤い、永らえを人生ごとに楽しんだ。
そして寿命が尽きれば <身・魂・魄を> 還す。
身は黄泉に、心(=魂と魄)は 陽陰(=日と月)に還って、
そしてまた生れ、
つまり人間も 還の道 (循環の道・輪廻の道・日月の道)
に
則っているというわけですね。
・人はもと 中子・心派 日月なり
〈ホ15-6〉
・陽陰
人に知れる 人の身の 四つを謹む 機の道 〈ミ1-2〉
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ゐくたひよよに たのしめは
ひとのうまれは ひのてなり まかるはいるひ
こゑのみち おほゑうまるは ひのてなり
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幾度世々に 楽しめば
人の生れは 日の出なり 罷るは入る日
還の道 覚え生るは 日の出なり
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■罷る (まかる)
マカルも複数の意味がありますが、このマカルは
「返る・還る」 が原義で、
「もとの所 (あの世) に還る・死ぬ」 という意です。
マク(巻く)+カル(▽転る)
の短縮で、「回る・回帰する・帰還する」
などが原義です。もう一つは、マク(撒く)+カル(離る)
の短縮で、
「離れる・去る」 などを原義とします。どちらも “罷る”
と宛てます。
■入る日 (いるひ)
「日の入り・日没」 です。
【概意】
幾度も人生を楽しむなれば、
人の生れは “日の出” であり、死ぬは “日の入り”
と同じである。
還の道 (輪廻転生の法) があることを知るならば、
人が世に生れることは 毎朝の “日の出”
にほかならない。
還(こゑ)は
「循環・巡回・輪廻」 が原義で、「日の出」 の意味を
導き出すには
やや遠いのですが、このトヨケの説話により
還=日の出=日高み(日の昇りの意)
の定義が一般化したようです。
アマテルが主となったハラミの宮に付けられた別名の一つに、
“オオヤマトヒタカミのヤスクニの宮”
というのがあるのですが、
このヒタカミはヒタカミ国のことではなく、「還=日月の循環」
を
意味します。
本日は以上です。それではまた!