1960年 (昭和35年) 12月17日 土曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
ライヴ演奏:カスバ・コーヒー・クラブ/リヴァプール |
ビートルズは、初めてのハンブルグ滞在が悲惨な結末に終わった後だけに、1960年の12月の大半を元気なく、また金もなく過ごした。
最後に英国に帰って来たのはジョン・レノンだったが、彼は5日間一人で引きこもり、やっと12月15日に他のメンバーに連絡をとっている。ポール・マッカートニーはその間、リヴァプールのある工場で仕事についていた。
ハンブルグの後はあまり優れなかった。みんな休息が必要だったね。みんな近況を語りに電話してくると思ったけど、まったく静かだったよ。誰も互いに連絡を取ろうとはしなかった。だから「あれで終わりだったのか、それともまだ続くのか」と行方を案じていたけれど、それほど僕は落胆していなかった。
僕はマシー&コギンズ社 (Massey and Coggins) というコイルを巻く工場で働き始めた。父は前から「外に出て仕事を見つけろ」と言ってたけど、僕は「バンドの仕事に就いてるよ」と答えていた。だけど2週間バンドの事を何もしないでいたら「だめだ、ちゃんとした仕事に就け」となった。彼はしまいには「仕事が見つかるまで帰ってくるな!」と僕を家から閉め出した。それで僕は職業紹介所に行って「仕事ありますか?なんでもいいんです。その求人票の山の一番上のやつでいいです。」と言った。それで最初の仕事はマシー&コギンズ社の庭の掃除で、僕はそれを受けた。 僕がそこに行くと人事係の人が「君に掃除をやらせるわけにはいかないな。君は管理職の器だ。」と言って、僕を将来的には昇格させるつもりで、まず工作現場から訓練し始めた。もちろん僕は工作現場ではいい労働者じゃなかったよ。コイル巻きは苦手だった。 ある日ジョンとジョージが、本来僕が掃除するはずだった庭に現れて、キャバーン・クラブで演奏の仕事があると言った。「う~ん、僕はここで週に7ポンド14シリングくれる安定的な仕事を見つけた。訓練も受けてるし、けっこういいんだ。これ以上は望めないよ。」僕はかなり真剣だった。でもそれから考えた、父の警告が頭をかすめたが、「えぇい、ちくしょう、こんなことやってられるか!」と塀を越えてずらかった。マシー&コギンズ社とはそれきりだった。今から思えば、あれは鋭く将来を見通した行動だったと言えるよね。 |
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ポール・マッカートニー |
ビートルズがハンブルグから戻って最初のショーは、モナ・ベスト
(Mona Best) の経営するカスバ・コーヒー・クラブ (Casbah Coffee
Club) で行われた。その会場は1959年10月10日にクオリーメン
(Quarrymen) で出演して以来であった。
スチュアート・サトクリフはアストリッド・キルヒャー (Astrid Kirchherr) とハンブルグに残ったため、ビートルズはピート・ベストの前のバンド、ブラックジャックス (The Blackjacks) でリズム・ギターを演奏していたチャス・ニュービー (Chas Newby) を、ベース・ギターにリクルートした。
またビートルズは、その夜の別の出演者ジーン・デイ&ザ・ジャンゴ・ビーツ (Gene Day and the Jango Beats) から装備を借りている。
カスバのあちこちに貼られたポスターには「ザ・ビートルズ!ドイツ・ハンブルグから直輸入」と書かれ、地下の会場はドイツ人バンドの演奏を期待する人で埋まった。だからジョンとポールとジョージがステージに向かって歩いてくると、多くの観客はがっかりする。
しかし一旦演奏が始まると、彼らのドイツ滞在中に大きな変化が起こったことが明らかに見て取れた。ビートルズは人々を驚かすような演奏をし、観客は熱狂する。
ビートルマニア (Beatlemania)
がイギリスで芽を吹こうとしていた。
ビートルズは1960年から1962年の間に、カスバに37回出演している。
1960年: | 12月17日・31日 |
1961年: | 1月15日・29日、2月12日・19日・26日、3月5日・12日・19日・26日、 8月6日・3日・27日、9月10日・24日、10月22日、11月19日・24日、12月3日・17日 |
1962年: | 1月7日・14日・21日・28日、2月4日・11日・18日・25日、 3月4日・11日・18日・25日、4月1日・7日・8日、6月24日 |
クオリーメンとしてはカスバに7回出演していた。
1959年: | 8月29日、9月5日・12日・19日・26日、10月3日・10日 |
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