1959年 (昭和34年) 8月29日 土曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
ライヴ演奏:カスバ・コーヒー・クラブ/リヴァプール |
これはティーンエージャーのための新しい社交場の開店の夜だった。ここはリヴァプールのヘイマンズ・グリーン
(Hayman's Green)
にある大きなヴィクトリア朝風の家の地下貯蔵室がベースとなっていた。
このクラブはピート・ベスト (Pete Best) の母モナ・ベスト (Mona Best) が経営し、彼女はこの土地と建物のオーナーでもあった。1エーカーの土地と15のベットルームを持つ建物は、以前はウェスト・ダービー・保守クラブ (West Derby Conservative Club) の所有だったが、1954にモナがエプソン・ダービー (Epson Derby) という競馬レースで勝ち、その配当金で購入していた。
モナはTVでロンドンのソーホー (Soho) 地区にある「2i's コーヒーバー (2i's Coffee Bar)」のレポートを見て、このクラブを開店するアイディアを持つ。カスバ・コーヒー・クラブ (Casbah Coffee Club) はピート・ベストとその弟ローリーの友人を対象とする会員専用クラブだった。
彼女は1年の会員権に半クラウン (crown)* を課金して、ソフトドリンクやケーキ&スナックを提供した。またカスバは当時としては珍しいエスプレッソのサーバーマシンを持っていた。ライブ演奏がない時は、モナはレコードを小さなダンセット (Dansette)** のプレーヤーにかけ、それを3インチのスピーカーで鳴らしていた。
*英国の旧通貨単位で、1クラウン=5シリング=25ペンス。
**英国のポータブル電気蓄音機メーカー。
クオリーメンはカスバに合計7回出演している。他の出演日は、
1959年: | 9月5日・12日・19日・26日、10月3日・10日 |
またビートルズとしてはここに37回出演している。
1960年: | 12月17日・31日 |
1961年: | 1月15日・29日、2月12日・19日・26日、3月5日・12日・19日・26日、 8月6日・3日・27日、9月10日・24日、10月22日、11月19日・24日、12月3日・17日 |
1962年: | 1月7日・14日・21日・28日、2月4日・11日・18日・25日、 3月4日・11日・18日・25日、4月1日・7日・8日、6月24日 |
この時のクオリーメン (Quarrymen)
のラインナップはジョン・レノン (John Lennon)
、ポール・マッカートニー (Paul McCartney)
、ジョージ・ハリスン (George Harrison)、それにケン・ブラウン
(Ken Brown) となっている。
実は当初、ジョージ・ハリスンとケン・ブラウンがギターを担当するレス・スチュアート・カルテット
(Les Stewart Quartet)
がその夜に演奏することになっていた。しかしブラウンはモナの店内装飾を手伝ってリハーサルをすっぽかしたことでスチュアートと口論になり、その結果そのグループの出演はキャンセルとなってしまったのだ。
300枚の会員カードはすでに完売していたため、モナは開店の夜を期待はずれなものにしたくなかった。そこでジョージは代役としてクオリーメンの演奏を提案したというわけだった。
クオリーメンの4人はそこにいる間、モナの店内装飾を手伝った。シンシア・パウエル
(Cynthia Powell)
もそれを手伝っている。また彼女は未来の夫となるジョン・レノンのシルエット画をその壁に描いている。その画は現在も見ることができる。
ジョン、ポールとジョージはモナに会いに行った。モナは彼らが演奏すること歓迎した。でも彼女は来週がクラブの開店だというのに、まだ地下室の壁のペンキ塗りをやっていた。それで3人は刷毛を手に持って彼女を手伝い、そして完成させた。ジョンは近視だからグロス塗料をエマルジョン塗料と取り違えていた。それは乾くのに何日もかかる。
彼らは1959年8月29日のそのクラブの開店日に演奏した。私も現場でそれを見た。彼らはもう一人、ケン・ブラウンをギターに加えていたが、ドラマーはいなかった。見つけられなかったのだ。300人くらいの人が来場して、彼らはロックンロールのヒット曲を2時間演奏した。その場は盛り上がってみんな踊ってた。息苦しいほどの熱気だった。 その夜は私たちが、ビートルズの未来のローディー (roadie)* となるニール・アスピノール (Neil Aspinall) とマル・エヴァンス (Mal Evans) に初めて会った夜でもあった。二人ともピート・ベストの友だちだったが、ニールはピートの母の彼氏でもあって、後に生まれるピートの弟ローグ (Roag:1962年生) の父親である。 *楽器の手配、積み込み・積み卸し、輸送、セッティング、エフェクティングといったコンサート業務や、楽器のメンテナンスおよび管理、ミュージシャンに対するサポートなどの業務を行う人々のこと。 |
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「John」シンシア・レノン |
この日のショーの成功により、クオリーメンは土曜の夜のレギュラーの座を与えられ、連続7週に渡ってカスバで演奏している。
クオリーメンはカスバでの演奏の報酬として一人15シリングずつ受け取った。マイクは1本しか無く、それが小さなPAシステムにつながっていた。ジョン・レノンは後にハリー (Harry) というアマチュアのギタリストをドアマンとして雇うように説得している。それはハリーが持っている40ワットのアンプを使いたいがためであった。
カスバは音楽ホールとして1962年まで営業していた。現在はリヴァプールの観光名所となっている。そのオリジナルの室内装飾は今も変わらず保存されている。
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