1960年 (昭和35年) 8月6日 土曜   前の記事 目次 次の記事
 ピート・ベストを勧誘

  
ビートルズ (The Beatles) は、グローブナー・ボールルーム (Grosvenor Ballroom) での土曜日の定期出演が地元住民の苦情によりキャンセルとなり、しばらく暇になった。この日彼らはモナ・ベスト (Mona Best) の経営するカスバ・コーヒー・クラブ (Casbah Coffee Club) に出かけ、そこでブラックジャックス (The Blackjacks) の演奏を目にする。

そのグループではモナの息子のピート・ベスト (Pete Best) が真新しいドラムセットを叩いていた。ブラックジャックスは解散寸前の状態だった。そこでビートルズはピートに、彼らのハンブルグ初遠征に参加しないかと提案したのだった。

ピート・ベストはこの申し出に興味を示し、次の金曜日に彼らのオーディションを受けることに同意した。
  

僕らはアメリカ軍の基地があるシュツットガルトで演奏の仕事にありつけたミュージシャンの話を聞いていて、ドイツあたりにはそういう仕事があることを知っていたので、それはエキサイティングなアイディアだった。

僕らがハンブルグに行くことになった背景には、ラリー・パーンズ (Larry Parnes) の仕事を辞めたデリー&ザ・シニアズ (Derry and the Seniors) というリヴァプールのグループがあった。仕事が無い時、彼らは本当にいらいらして、ロンドンに行ってラリーを殴ってやろうということになった。アラン・ウィリアムズ (Allan Williams) は彼らに「ロンドンに行くなら楽器も持って行けよ。」と言った。アランははロンドンまで車を運転して、トミー・スティール (Tommy Steele) が発掘された『2I's』というクラブに彼らを連れて行った。彼らはラリー・パーンズを殴れなかったが、そのクラブで認められたんだ。

ブルーノ・コシュミダー (Bruno Koschmider) というドイツのプロモーターがそこで彼らを見て、ハンブルグのカイザー・ケラー (Kaiserkeller) という自分のクラブに雇ったんだ。そして彼らは2ヶ月ほど現地にいた。ブルーノはよほど彼らが気に入ったんだろう。それから彼はアラン・ウィリアムズに連絡をとって「インドラ (Indra) という別の店のために、もう一つリヴァプールのバンドが欲しい」と言って来たんだ。

アラン・ウィリアムズはこの仕事を僕らに持ってきた。「しかし …」彼は言った「奴が欲しがっているのは5人組のバンドだ。」そのころ僕らはジョンとポールに僕とスチュアートの4人だったから、もう一人メンバーが必要だった。僕らは興奮した。しかし思った、「ポールは本来はドラマーじゃない。どこからドラマーを見つけてくればいいんだ。」僕はその時、クリスマスにドラムセットを買ってもらった奴のことを思い出したんだ。彼の名はピート・ベスト。カスバ・クラブは彼の家の地下にあった。

 

ジョージ・ハリスン
アンソロジー

  

  

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