1960年 (昭和35年) 12月10日 土曜   前の記事 目次 次の記事
 ジョン、ハンブルグを去る

  
ポール・マッカートニーとピート・ベストがドイツから追放された10日後、ジョン・レノンも列車と船を利用してイギリスに戻った。

すでにジョージ・ハリスンは、ポールとピートが英国に強制送還される以前の11月21日に、ドイツを追放されリヴァプールに戻っていた。スチュアート・サトクリフは一時的にアストリッド・キルヒャー (Astrid Kirchherr) の所へ身を隠し、ハンブルグに留まった。

ビートルズの今回のドイツ滞在は法律上の問題を抱えていた。まず全員が労働許可を持っていなかった。それはしばらくは発覚しなかったが、18歳未満だったジョージの深夜労働を、雇い主のブルーノ・コシュミダー (Bruno Koschmider) が告発し、ジョージは国外退去を命じられる。次にポールとピートが放火未遂の容疑 (これもコシュミダーの告発による) で英国へ強制送還された。こうなれば労働許可を持たないジョンとスチュアートが、国外退去を命じられるのも時間の問題だった。

  

みんなドイツから追放されて、僕はひとり他のバンドと演奏しながらハンブルグに残った。あの若さでたったひとりで外国にいるのはかなり痛切な経験だった。僕らは稼いだ金で生活していくのがやっとだった。僕は何の蓄えも無かったから、特にクリスマスの頃は冗談でなく食料を買う金もない状態で、ハンブルグに閉じ込められていたんだ。故郷へ帰る時は惨めな気分だった。リヴァプールまで帰るのはけっこう腹を減らす重労働で、僕は本当に自分がかわいそうになった。僕はまだ支払いが終わっていないアンプを背負っていたが、盗まれはしないかとカチカチに緊張した。イギリスまでたどり着けやしないと確信したね。

ようやく家に帰り着いた時、僕はうんざりして、数週間は他のメンバーと接触する気が起きなかった。18~19歳の頃の一月は長い。彼らが何をしているのか知らなかった。僕はただ引きこもって今後も続けるべきかを考えた「これは僕のやりたいことか?」僕はいつも詩人や画家になった気分で考えた「ナイトクラブ、みすぼらしい風景、国外追放、クラブの変人、これか?」今でこそ『デカダン (decadence)』とか言うけど、何のことはない、ただハンブルグのストリップ・クラブで演奏していたというだけのことだ。僕は必死に続けるべきかどうかを考えた。ジョージとポールに見つかった時、彼らは僕に怒っていた。なぜなら彼らは「今ごろ本当は仕事を続けていたはずなのに」と考えていたからだ。でも僕は退いたんだ。わかるだろ。僕の一面は修道士で、別の一面は演技するノミだった。何時やめるべきかは僕にとって死活問題だったんだ。

とにかく、その後しばらくして、僕らはリヴァプールの音楽シーンで稼ぐべきだという結論に達した。そしたらいろんなことが開花してきて、ハンブルグでの毎日の長時間演奏から得た経験を、今ここで捨ててしまうのは惜しいと思った。

 

ジョン・レノン
アンソロジー

  
ジョージ、ポール、ピートの3人は、4~5日間はジョンが戻っていることに気づかずにいた。ジョンが彼らにコンタクトをとったのは12月15日であった。

スチュアートはハンブルグに居座ったが、これは事実上、ビートルズのメンバーとしてのスチュアート・サトクリフの終了を意味していた。彼は1961年1月20日に飛行機でイギリスに戻る。

  

  

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