1962年 (昭和37年) 6月6日 水曜 前の記事 目次 次の記事
 録音:『Love Me Do』他/アビー・ロード (初)

場所

EMIアビーロード第2スタジオ (Studio2/EMI Studios, Abbey Road)

プロデューサー

ジョージ・マーティン (George Martin)、ロン・リチャーズ (Ron Richards)

エンジニア ノーマン・スミス (Norman Smith) 
録音楽曲 Besame Mucho,  Love Me Do,  PS I Love You,  Ask Me Why

  
1962年6月6日は、ビートルズがロンドンのセント・ジョンズ・ウッド (St. John's Wood) アビー・ロード (Abbey Road) 3番にあるEMIスタジオを初めて訪れた歴史的な日であった。7:00pm~10:00pmに第2スタジオで行われたこのレコーディング・セッションは、実質的にはむしろオーディションであった。彼らは多くの曲をひと通りプレーしてウォーミングアップした後、4曲を録音する。正確なテイク数は知られていないが、『Besame Mucho』『Love Me Do』『PS I Love You』『Ask Me Why』の順でテープに収められた。
  

ビートルズの印象はルックス以外はあまりよくなかった。つまりジョンとポールのソングライターとしての資質はまったく聴き取ることはできなかった。彼らはちっぽけなVOX社製のアンプとスピーカーを持ってたが、それらは楽器の源音を再生できていなかった。言うまでもなくすべての音響技師はあるレベルの源音を欲しがる。それさえあれば後でいくらでも改良したり効果を加えたりできるからね。しかし僕らがビートルズの装置から得たものは大量のノイズやハム、あと正体不明の音だけだった。ポールの装置は最悪だった。その頃は残響を付加するために残響室 (echo chamber) という部屋があったが、僕は彼の音をなんとかテープに収められるレベルにするのに、第2スタジオの残響室にあったアンプとスピーカーを引っぱり出さなければならなかった。

 

ノーマン・スミス
「Sound On Sound」

  
問題はポール・マッカートニーのベース・アンプだけではなかった。
  

ジョン・レノンのギターアンプが振動してカタカタ鳴るのを、僕らは実際にひもで縛って止めた。それからピート・ベストのドラムのシンバルにも確か問題があったと思う。でも最終的に何とかすべてを整頓し、やっとのことでレコーディング開始にこぎつけた。

 

ノーマン・スミス
「Recording The Beatles」ブライアン・ケヒュー&ケビン・ライアン

  
このセッションについての記録文書のほとんどはとっくの昔に破棄されている。しかしロン・リチャード (Ron Richard) をアシスタントとしてジョージ・マーティン (George Martin) がプロデュースし、ピート・ベストがドラムで参加した唯一のEMIレコーディング・セッションだったことだけはわかっている。9月4日にビートルズがアビーロードにもどった時には、リンゴ・スター (Ringo Starr) が新ドラマーとして参加している。

当初ロン・リチャードがこのセッションを任されたが、調整技師のノーマン・スミス (Norman Smith) が『Love Me Do』のクオリティに驚き、そこではじめてジョージ・マーティンが呼び出される。アーチスト・テストにプロデューサーが臨席すること自体が珍しいが、彼はこの日このセッションのほとんどに付き添っている。
  

調整室のドアが開いて入って来たのはジョージ・マーティン本人だった。そして僕は内心で「彼が出てくるなんて、これは何か特別なアーチスト・テストに違いない」と思った。普通プロデューサーはアーチスト・テストには付き添わない。それはアシスタントの役目だった。そしてもちろんジョージ・マーティンはそれまでギター・グループに関係したことはまったく無かった。彼はピーター・セラーズ (Peter Sllers) とかのコメディ・レコードを多くプロデュースしていた。

 

ノーマン・スミス
「Recording The Beatles」ブライアン・ケヒュー&ケビン・ライアン

  
実際の所は、『Love Me Do』を聴いて何かを感じたスミスが、ロン・リチャードにジョージ・マーティンを呼び出すべきだと提言し、テープ・オペレーターのクリス・ニール (Chris Neal) にマーティンを連れてくるよう指示したようだ。それ以後はマーティンがこのセッションの指揮を取った。録音終了後にマーティンはビートルズを調整室に招いて録音を再生して聞かせ、また会話した。
  

僕らは彼らの装置について、またレコーディング・アーチストになるなら、装置に対して配慮すべきことについて長々と彼らに講義した。彼らは一言も物を言わず、同意して頷くことさえなかった。ジョージ・マーティンはしまいに言った「かなりの時間、こうして私は君たちに言葉を投げかけているのに、君らからは応答がない。何か気に入らないことがあるのかね?」彼らは貧乏揺すりしながら長くお互い同士を見つめ合った。そしてジョージ・ハリスンがマーティンを長々と見つめた後に言った「はい。あなたのネクタイが好きじゃありません。」その一言が我々を閉じ込めていた氷を溶かした。その後の15~20分、彼らはまったく愉快だった。彼らが帰った後、マーティンと僕は座って話した「ふぅー、ところで奴らをどう思うよ?」僕の顔には涙が伝っていた。

 

ノーマン・スミス
「The Complete Beatles Recording Sessions」マーク・ルイソン

  
この日の録音は、このセッションの録音から商用レコードのリリースはできないと決定された時に廃棄されている。これは60年代の初期においては普通のことであった。

しかし『Besame Mucho』『Love Me Do』は非公式ながら生き残った。前者は1980年代、後者は1994年に個人コレクションの中から発見されている。どちらもアルバム「アンソロジー1」に収録された。
  

彼らが帰るとマーティンは僕の所に戻って来て言った「さて彼らをどう思う?」僕は言った「僕はアーチスト・テストに来る多くのグループを見てきた。だけどこのグループには何か特別なものがる。それが何かは言えない、しかし彼らには何かがある。」前に言った通り、テストはそれほどうまく行ったわけじゃないし、僕は彼らのサウンドにこれといった印象は無かった。だけど彼らは訴える力、ある種のカリスマを持っていた。僕はマーティンに「私見では、彼らは契約されてしかるべきだ。」と言った。そして彼が帰るときに僕に言った「わかった。考えてみるよ。」という言葉を忘れることはないだろう。

ところであの日のアーチスト・テストの前に、ビートルズは実際は契約書にサインしていたのではないかという議論が後になって起こった。出てきた議論の多くは「なぜジョージ・マーティン自身ががアーチスト・テストに付き添ったのか?」という個人的な疑問に意味を成すものだった。言ったようにそれはアシスタントの仕事で、他のプロデューサーは誰もそんなことはしなかった時代だ。

ところがあのアーチスト・テストにはジョージ・マーティン自身が当った。ということはあの時点で契約が結ばれていたのは疑う余地がない。しかし後に僕は迷い始めた「彼らはすでにサインされていたのか? だからジョージ・マーティン自ら出てきたのか? それとも彼がビートルズに会うのが初めてだったからか? それとも他にも何かあったのか?」

 

ノーマン・スミス
「Recording The Beatles」ブライアン・ケヒュー&ケビン・ライアン

  
ケン・タウンセンド (Ken Townsend) はこのセッションでテープ・オペレーターをしていた。彼はビートルズの印象は長続きしなかったことについて後に回想している。
  

僕らはあのテストをやって、テープはライブラリーに保管された。およそ1週間後にノーマンが僕に言った「ケン、先週僕らがやったあのグループの名前はなんて言ったかな? マンチェスター・スクウェアにテープを持っていかなきゃならないんだ。」僕は言った「ザ・ビートルズ!」つまり彼は実際そのグループの名前を忘れていたんだ。

 

ケン・タウンセンド
「Recording The Beatles」ブライアン・ケヒュー&ケビン・ライアン

  

  

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