▲目次へ戻る

 ジョージ・マーティン (George Martin) 

  
彼は1926年1月3日に、ロンドンのでジョージ・ヘンリー・マーティン (George Henry Martin) として生まれる。6歳の時、マーティン家が手に入れたピアノが彼の音楽への関心に火をつける。2年後に彼は両親にねだってレッスンを受けさせてもらうようになるが、母親と教師の折り合いが悪く、わずか8回のレッスンで終わっている。その後マーティンは独学でピアノを習得したと語っている。

彼は子供の頃、ホロウェイの修道会学校、ハイゲイト (Highgate) の聖ジョーゼフ初等学校 (St Joseph's elementary school) を含めていくつかの学校を渡り歩く。そしてスタンフォード・ヒル (Stanford Hill) にある聖イグナティウス大学 (St Ignatius' College) に入り、そこでは奨学金を勝ち取る。戦争が始まると聖イグナティウス大学の学生はウェルウィン・ガーデン・シティ (Welwyn Garden City) に疎開させられたため、彼の一家はロンドンを離れ、彼はブロムリー・グラマー・スクール (Bromley Grammer School) に編入した。
    

初めて交響楽団を聞いた時のことをよく覚えている。それは私がティーンエージャーで、エイドリアン・ボールト (Adrian Boult) が公開コンサートで私の学校にBBC交響楽団を連れて来た時だった。それはまったくの魔法だった。その壮麗なサウンドを聞いた時、私はその音と、真鍮や木製の器具を吹いたり、弦を馬の毛の弓でこすったりする90人の男女とを、結びつけることができなかった。

 

ジョージ・マーティン

  
彼は少しだけ積算士 (quantity surveyer) として働き、それから国防省の臨時職員となる。彼が17歳の1943年に英国海軍のパイロットそして将校になるが、戦闘に巻き込まれる前に戦争は終わる。彼は退役軍人の助成金で1947年から1950年までギルドホール音楽演劇学校 (Guildhall School of Music and Drama) に通い、そこでピアノとオーボエを学び、またラヴェル (Ravel)、ラフマニノフ (Rachmaninov)、コール・ポーター (Cole Porter)、ジョニー・ダンクワース (Johnny Dankworth) などの音楽を学んだ。偶然にも彼のオーボエの教師は、1960年代にポール・マッカートニーと関係を持つ、ジェーン・アッシャー (Jane Asher) の母のマーガレット (Margaret) であった。

1948年の22歳の誕生日に、まだ在学中のマーティンはシーナ・チザム (Sheena Chisholm) と結婚、アレクシス (Alexis) とグレゴリー (Gregory) の2子を儲けるが、後に離婚。1966年6月にジュディ・ロックハート・スミス (Judy Lockhart-Smith) と再婚し、やはりルーシー (Lucy) とガイルズ (Giles) の2子を儲ける。

ギルドホール音楽演劇学校を卒業後、BBCのクラシック音楽部局で働き、そして1950年にパーロフォン (Parlophone) 社長のオスカー・プロイス (Oscar Preuss) 氏の助手としてEMIに入る。パーロフォンは過去においては最も伝統のあるドイツ系の重要なレーベルだったが、その頃にはEMIのマイナーなレーベルの一つに零落していた。

プロイスが1955年に引退した後を受けて、マーティンがパーロフォン社のヘッドとなる。彼の最大の成功はコメディや企画物のレコードだった。1962年にマーティンは、レイ・カソード (Ray Cathode) のペンネームで「タイム・ビート (Time Beat)」というエレクトロニック・ダンス曲を録音してリリースする。英国で芽を出し始めていたロックンロールの波に乗ろうと、彼はパートナーとなるグループを探し始めた。

マーティンは、デッカ (Decca) をはじめ大方のレコード・レーベルに蹴られたポップ・グループをマネージングしているというブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) のことを聞かされた。彼は1962年の2月13日にエプスタインと会う手はずを調える。そこで彼はビートルズのデッカでのオーディションの録音を聞く。彼は彼らを有望だとは思わなかったが、ジョン・レノンとポール・マッカートニーのヴォーカルには好感を持った。

マーティンとエプスタインは5月9日にEMIのアビーロード (Abby Road) スタジオで再び会う。マーティンはまだビートルズに会ったことはなかったし演奏も聞いたことはなかったが、エプスタインの熱意に打たれ、契約することに合意する。マーティンは「失うものは何もない」と考えて、その契約では1枚のレコード売上げに付き、1ペニーのロイヤリティをビートルズ払うことを約束していた。

マーティンはそのバンドのパフォーマンスを聞いてから契約書にサインするという条件で合意した。そして1962年6月6日に、プロデューサー:ロン・リチャード (Ron Richard)、エンジニア:ノーマン・スミス (Norman Smith) でオーディション・テープを録音する。マーティンはそのレコーディング・セッションには姿を見せなかったが、終了後ビートルズに会い、テープを聞いた。彼はそのバンドのオリジナル曲はあまり良くないと思った。彼らに何か気に入らない事はあるかと尋ねると、ジョージ・ハリスンが「まずはあなたのネクタイですね」と答えた。これからガラッと楽しいムードに変わり、マーティンは彼らのウィットだけでも契約する価値があると感じたのだった。

  

  

▲目次ヘ戻る