1961年 (昭和36年) 10月28日 土曜   前の記事 目次 次の記事
 レイモンド・ジョーンズ、『マイ・ボニー』をNEMSに注文

  
この日、リヴァプールのホワイトチャペル (Whitechapel) にあるレコード店、NEMS (North End Music Store) の経営者ブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) は、非常に重要なレコードの注文を受ける。注文した客の名はレイモンド・ジョーンズ (Raymond Jones)、注文したレコードはビートルズのシングル盤『マイ・ボニー (My Bonnie)』である。

ジョーンズに注文を受けるこの日まで、エプスタインがビートルズの存在を知らなかったというのは、絶対に有り得ないとは言わないが、可能性は非常に低い。ビートルズはリヴァプールの音楽情報誌『マージー・ビート (Mersey Beat)』に常時取り上げられていたが、エプスタインはそれを自分の店で販売し、また自らレコード評論を誌上に書いているのだ。彼は誌の実際の内容には興味がなかったかもしれないが、ハンブルグを魅了した革服のグループに気がつかなかったとは考えにくい。

さりながら、エプスタインの興味はジョーンズの熱意との遭遇によって掻き立てられ、12日後の1961年11月9日に彼は、ビートルズの演奏を見に初めてキャバーン・クラブを訪れるのである。それは関係する人々の人生を不可逆的に変貌させ、大衆文化に革命を引き起こす連鎖反応に火を点ける事件であった。

レイモンド・ジョーンズへの最初の言及は、イギリスの新聞社がエプスタインに行ったインタビューの中に現れる。
  

ビートルズが自分たちのレコードを2枚出したくらいの頃、全国紙がブライアン・エプスタインのインタビューを掲載した。その記事の中で彼が僕を「18歳の古い革ジャンを着たみすぼらしい若者」と表現しているのが頭にきた。僕は彼の発言に対する自分の憤慨を示すためにNEMSに手紙を書いた。その中で「すべての人がスーツを着ているわけではない。生きるために労働せざるを得ない人々もいる。」と書いた。

その後すぐにNEMSの誰かが僕に手紙で、オフィスにいるエプスタイン氏に連絡をとって欲しいと頼んできた。当時そのオフィスはデール通り (Dale Street) を曲がったムアフィールズ (Moorfields) にあった。彼に電話すると、直接謝りたいからオフィスまで来てくれないかと言う。幾分ぞんざいな彼の謝罪の後、デール通りのリグビーズ (Rigby's) というパブに二人で出かけて2杯飲んだ。彼はさまざまな質問をしてきて、僕の答えのメモを取っていた。彼は口には出さなかったけど、『A Cellarful Of Noise』の出版を計画していたに違いなかったと思うよ。

しばらくして、何のためなのか知らないが、僕の仲間がブライアンに手紙を書いた。折り返し彼女は、エプスタインの秘書ダイアナ・ヴェロ (Diana Vero) から返信を受ける。それには、エプスタインの本のコピーを送りたいから僕の住所を知らせてくれとあった。1周間くらい後に僕はそれを受け取った。

 

レイモンド・ジョーンズ

  
エプスタインは1964年初版の彼の自伝『A Cellarful Of Noise』の中で、ジョーンズのレコード注文の話を詳しく伝えている。その記述は序文の2つの段落に現れ、ビートルズの歴史の中でそれが如何に重要な出来事だったかを説明している。
  

1961年10月28日、土曜の午後3時頃にレイモンド・ジョーンズという18歳の少年が、ジーンズと黒の革ジャン姿でリヴァプールのホワイトチャペルにあるレコード店に入って来た。「欲しいレコードがあるんだ。それは "マイ・ボニー" という曲名でドイツで作られた。これある?」

カウンターのうしろにはここの店長、27歳のブライアン・エプスタインがいた。彼は首を振って「誰のレコードですか?」と尋ねる。「彼らのこと聞いたことないの?」とジョーンズが言う。「それはビートルズというグループのレコードだよ。」

 

ブライアン・エプスタイン
「A Cellarful Of Noise」

  
この話は本の後半で再び詳しく述べられている。
  

10月28日の土曜、私はスペインでの長い休暇から戻ったばかりだった。休暇中、私は自分の興味をどうやったら拡張して行けるかを考えていた。

そして突然に、けっしてドラマチックではなかったが、レイモンド・ジョーンズの発した数語の言葉が解答をもたらす。その言葉とはもちろん「ビートルズのレコードありますか?」

私はそれまでリヴァプールのいかなるビート・グループにも関心を持ったことはなく、地下クラブ (cellar clubs) に行くということも考えたことすらなかった。それらは私の人生には含まれていなかった。なぜならば私はその世代の人間ではなかったし、また私は忙しすぎたからである。しかし私は、50年代後半のプレスリーやトミー・スティールからシャドーズにいたる10代のスターの影響で、多くの少年がギターを手にしていることを知った。シャドーズは1962年の秋まではクリフ・リチャードのバックバンドでありながら、インストゥルメンタル曲のスターであり、比類の無い英国のアイドルである。

私にとって "Beatle" という名に意味はなかった。ニュー・ブライトン・タワー (New Brighton Tower) で催された大学ダンスパーティーの広告ポスターで、その名を見たおぼろげな記憶があるが、その時も奇妙で無意味なスペルだと思っていた。

レイモンド・ジョーンズは、未知のレコードを求めて毎日のように来店する極普通の客の一人だった。今思えば顧客への通常のサービスを超えて、レコーディング・アーティストの長々としたリストを調べる理由は思い当たらない。にもかからわず私はそれを行ったのである。私は時々、"Beatle" という名には神秘的な磁力があるのだろうかと思うことがある。

10月28日、私はレイモンド・ジョーンズの注文を書き留め、彼は店を出て行った。私はメモに「"マイ・ボニー"、ザ・ビートルズ。月曜にチェック。」と書いた。

 

ブライアン・エプスタイン
「A Cellarful Of Noise」

  
レイモンド・ジョーンズの注文の話は、ハンター・デイヴィス (Hunter Davis) が1968年に書いたビートルズ認定の伝記の中で再浮上している。おもしろいことにデイヴィスは、ブライアン・エプスタインはその日までビートルズを知らなかったと主張して物語を潤色している。
  

正確に言うと、1961年10月28日の午後3時にそれは起こった。黒の革ジャン姿のレイモンド・ジョーンズという若者が、リヴァプールのホワイトチャペルにあるNEMSというレコード店に入り、ザ・ビートルズというグループの『マイ・ボニー』というレコードを求めた。カウンターのうしろにいたブライアン・エプスタインは「大変申し訳ありません」と言った。彼はそんなレコードも、ビートルズというグループも聞いたことがなかったのである。

 

「The Beatles」ハンター・デイヴィス

  
『A Cellarful Of Noise』の中でエプスタインは、リヴァプールでの公演の宣伝ポスターでビートルズの名を見ていること、また自分のレコード店内で彼らを見た記憶があることを語っている。彼はまたジョーンズの他に、2人のリヴァプールの女の子が「マイ・ボニー」を求めて来たとも語っている。ストーリーはは、エプスタインがさらなる調査を決意し、次の月曜に供給業者に電話して顧客の求めたレコードを注文するという話に展開していく。
  

「ポリドール・レコードはエプスタインのオーダー "マイ・ボニー" 200枚を発送」とマージー・ビート誌は忠実に書いた。そのレコードはビートルズ追従者の間にかなり良く売れたが、中にはレイモンド・ジョーンズも含めて、彼らが単にトニー・シェリダン (Tony Sheridan) のバックバンドで、名前も「ザ・ビート・ブラザーズ (The Beat Brothers)」であることにがっかりした者もいた。

 

「Shout!」フィリップ・ノーマン

  
エプスタインの気をビートルズに最初に引いたのはレイモンド・ジョーンズではなかった。ビル・ハリー (Bill Harry) は自分が発行するマージー・ビート誌で、頻繁にビートルズを取り上げているため、エプスタインは彼らの音楽は知らなかったとしても、名前を知らなかったはずはまずない。
  

僕は1961年7月の第1週に、マージー・ビート誌のコピーを携えてNEMSに行き、支配人に面会を求めた。ブライアン・エプスタインはオフィスから降りてきて、僕が創刊号のコピーを見せると、彼は1ダースの注文をくれた。その後彼は電話で追加注文を入れた。(うちの電話番号は、第2ページの「ジョンの書いたビートルズの伝記」の隣に書いてあった。) 

彼はたちまち売り切れたことに驚いていた。創刊号の日付は1961年7月6日、第2号は7月20日に発行されている。ブライアンは第2号には144部の注文を入れている。この数は、1レコード店の購入部数としては前代未聞だ。そしてそれらは完売した。

ブライアンはマージーサイド地域の音楽シーンについてはまったく無知だった。地元で多くの事が起こっていることをマージー・ビート誌で読んで本当に驚いていた。彼は僕を自分のオフィスに招いて音楽的な動きについて話をしたが、それにかなり驚いていたようだった。

その後の二人の話の中で、グループについて問われると時々ビートルズの名前が出た。なぜなら彼らは他の誰にもまして、僕がマージー・ビート誌でプッシュし続けているグループだったからね。

 

ビル・ハリー
Beatles Examiner

  
エプスタインは『マイ・ボニー』のことを聞く以前からビートルズの存在に気づいていたが、おそらくNEMSの客からそのレコードの注文を受けたことが一つの刺激となって、キャバーンに彼らを見に行く気を起こしたというのが真相だろう。しかしエプスタインが新聞のインタビューと『A Cellarful Of Noise』の両方で、レイモンド・ジョーンズの名を挙げている事実は依然として重要である。

エプスタインのアシスタントのアリステア・テイラー (Alistair Taylor) は長年に渡って、レイモンド・ジョーンズはそのレコードを注文するためにでっち上げた人物だと主張してきた。(当時のNEMSの発注手続きでは、購入予約したお客の名前を付記することが義務付けられていた。そしてテイラーはそのシングル盤を在庫したかったのだという。) しかしそれは事実ではない。レイモンド・ジョーンズは実在した。彼は1941年に生まれ、リヴァプールの印刷会社で働いた。彼はビートルズの公演を何度も見ており、確かにNEMSでエプスタインに『マイ・ボニー』のレコードを注文していた。

2010年8月、レイモンド・ジョーンズは The Beatles Bible サイトのインタビューに応じている。彼はアリステア・テイラーの主張してきた記録を正すことを熱望していること、また彼のビートルズの思い出、エプスタインから『A Cellarful Of Noise』のコピーを受け取った経緯などについて語っている。

  

  

前の記事 目次 次の記事
ライヴ演奏
キャバーン・クラブ (夜)
ライヴ演奏
マージーサイド・
市民サービス・クラブ