1960年 (昭和35年) 8月18日 木曜   前の記事 目次 次の記事
 ライヴ演奏:インドラ・クラブ/ハンブルグ (2日目) 

  
インドラ・クラブ (Indora Club) での初演奏 (8月17日) を終えた後、ビートルズはブルーノ・コシュミダー (Bruno Koschmider) のフラットに泊った。

その翌日 (この日) ブルーノは、彼らをパウル・ローセン通り (Paul-Roosen Strasse) 33番地にあるバンビ映画館 (Bambi-Filmkunsttheater) に連れて行った。ビートルズはどうして古い西部劇を上映しているさびれた映画館を見せられるのか、銀幕の後ろの汚い部屋へ案内されるまではわからなかった。コシュミダーは通訳のスタイナー (Herr Steiner) を通して、「ハンブルグ滞在中は、ここがビートルズの家だ。」と言った。
  

僕らはバンビ映画館のステージ裏に住んだ。トイレの隣でいつも匂ってた。その部屋は古い物置だった所で、コンクリートの壁以外には何もない。暖房は無かった。壁紙も貼ってなければペンキも塗ってない。ただキャンプて使うような小さな二段ベッドが2組あった。でも毛布はたくさん無くて、僕らは凍えてたよ。

 

ポール・マッカートニー
アンソロジー

    
またコシュミダーはトイレを指さして、「ここが浴場だ」と彼らに告げた。
  

僕らは豚小屋に置かれた。それは荒れ果てた汚い映画館のトイレのような場所だった。僕らは婦人用トイレのすぐ隣のトイレに住んでいたんだ。僕らは夜遅くベッドに入り、翌朝は映画のサウンドで起こされた。僕らはまず婦人用のブースに入ろうとした。そこがその映画館のトイレの中で一番きれいだったからだ。でも太ったドイツ人の老女が僕らを押しのけた。

僕らが目を覚ますと、年取ったドイツ婦人が放尿していたものだった。そこが僕らの浴場だった。あれはいささかショックだったよ。

 

ジョン・レノン
アンソロジー

  
バンビ映画館には調理設備は無かった。ビートルズがハンブルグに着いた時には、彼らは文無しだったため、英国船員協会 (British Sailor's Society) を訪れた。そこのマネージャーのジム・ホーク (Jim Hawke) は彼らにコーンフレークとミルクを恵んでくれた。

彼らはその夜インドラ・クラブで、マネージャーのアラン・ウィリアムズに、腕を磨けと尻をたたかれる。彼は「盛り上げろ! (Make it a show!)」と励ました。そのフレーズはすぐにコシュミダーにも採用され、「マック・ショー、ビートルズ!マック・ショー!」(Mak show, Beatles! Mak show!) の連呼は、このビートルズ最初のハンブルグのショーを特徴づけるものとなった。

彼らはそのことを意識してステージに取り組み始める。そしてハンブルグ滞在の終盤には、もはや揺るぎない出演者となり、常に多くの観客を集め、努力せずとも自然に観客を魅了することができるようになっていた。

  

  

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インドラ・クラブ/ハンブルグ
 (初日)
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インドラ・クラブ/ハンブルグ
 (最終48日目)