1960年 (昭和35年) 5月14日 土曜   前の記事 目次 次の記事
 ライヴ演奏:レイソム・ホール/リヴァプール

  
このグループはたった一晩だけ『シルバー・ビーツ (The Silver Beats)』の名で演奏したことがある。それはリヴァプールのプロモーター、ブライアン・ケリー (Brian Kelly) の企画するショーに初めて出演した時であった。

ビーケイ (B.K.) と通称されるブライアン・ケリーは、このレイソム・ホール (Lathom Hall) の他にも、リザーランド・タウン・ホール (Litherland Town Hall)、アレクサンドラ・ホール (Alexandra Hall)、エインツリー・インスティチュート (Aintree Institute) を含めて、多くのホールを経営していた。ビートルズはその初期の段階では数多くビーケイのショーで演奏している。

この日のショーの他の出演者は、デルトーンズ (The Deltones)とキング・サイズ・テーラー&ザ・ドミノス (King Size Taylor and the Dominos) であった。シルバー・ビーツは広告にもプログラムにも記載されていなかった。というもの彼らはこの日カサノバ・クラブ (Casanova Club) に出演する予定だったからである。クリフ・ロバーツ&ザ・ロッカーズ (Cliff Roberts and the Rockers) が両方の会場にダブってブッキングされるというミスがあり、そこでロバーツが、シルバー・ビーツはレイソム・ホールの方へ行けよと提案したのであった。

ケリーはシルバー・ビーツに感銘を受け、1週間後の5月21日のダンスパーティーに彼らをブッキングした。しかもドミノスの上に位置する花形スターとしてである。ところが4日後、ロンドンのプロモーター、ラリー・パーンズ (Larry Parnes) が、ジョニー・ジェントル (Johnny Gentle) のバックバンドとしてスコットランドツアーへ参加することを彼らにオファーしてくる。

彼らは、すでに彼らの出演を広告していたケリーにそのことを言いそびれてしまう。ケリーはショーの当日、失望したファンに謝罪しなければならなかった。その結果として、彼らは数ヶ月間ケリーからの契約はもらえなかった。しかし後にボブ・ウーラー (Bob Wooler) がケリーに考え直すよう説得する。

彼らのレイソム・ホールへの出演は、シルバー・ビーツとしてはこの1回きりだが、ビートルズとしては1961年1月の7日、20日、21日、28日、30日、2月の4日、6日、10日、11日、25日にも出演している。

レイソム・ホールは1884年に映画館として建設され、リヴァプールのシーフォース (Seaforth) 地区にあった。

  

  

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