1960年 (昭和35年) 12月27日 火曜   前の記事 目次 次の記事
 ライヴ演奏:リザーランド・タウン・ホール/リヴァプール

  
この日1960年12月27日に、ビートルズはリヴァプールのリザーランド・タウン・ホール (Litherland Town Hall) で公演した。この時のビートルズのラインナップは、ジョン、ポール、ジョージ、ピート、それにハンブルグに残ったスチュアートの代用で、チャス・ニュービー (Chas Newby) がベースで参加している。

彼らが最初のハンブルグ滞在から帰還したことを受けて、「お帰りなさい (Welcome Home)」と広告ビラに記されたこのショーは、ビートルズの名をリヴァプールのライヴバンドのトップに躍進させる突破口となった。
  

まったく突然に僕たちはスターになっていた。いいかい、観客の70%は僕らをドイツ人のスターだと思ったんだ。しかしまあそれは気にしなかった。リヴァプールにおいてでさえ、人々は僕らが地元の人間だとは知らず、ハンブルグから来たと思っていたんだ。彼らは言った「なんと!奴らはいい英語を話すじゃないの!」そりゃそうだよね。英国人なんだから。

僕らが本当に殻を破って外に出たのは、あの夜だった。ステージに立って祝福を感じたのはそれが初めてだった。以来、僕らは「自分たちはいい」と考え始めた。ハンブルグまでは「自分たちは悪くはない」と思っていたが、決して「いい」とは思わなかったんだ。他のみんながクリフ・リチャード (Cliff Richard) を真似ている間に、僕らには変化が起こり、他のミュージシャンとの違いが現れた。でもそれはリヴァプールに帰って初めて分かったんだ。

 

ジョン・レノン
アンソロジー

  
ビートルズはこのリザーランド・タウン・ホールで、少なくとも20回の公演を行っていて、いつも熱烈な観客を集めた。しかし彼らにとってこの日ほどの重要性を持つショーは他になかった。

この日のブッキングは、マネージャーのアラン・ウィリアムズ (Allan Williams) がビートルズに紹介したボブ・ウーラー (Bob Wooler) によって手配された。彼は後にキャバーン・クラブ (Cavern Club) の館内DJになっている。
  

僕たちに演奏の仕事が来た。アラン・ウィリアムズが、ダンスホール巡業の司会をやっているボブ・ウーラーという奴を僕らに紹介した。彼は僕らを一晩駆り出して「ハンブルグ直送 ザ・ビートルズ!」という広告ポスターを作った。実際僕らはドイツ人ぽく見えたのかもしれない。他のグループとは違って革のジャケットを着ていたからね。見た目が風変わりだったし演奏も風変わりだった。僕らは爆弾を落としたんだ。

 

ジョージ・ハリスン
アンソロジー

  
ボブ・ウーラーは28歳のディスクジョッキー/司会者で、アラン・ウィリアムズがリヴァプールに出店したトップ・テン・クラブ (Top Ten Club) で少し働いていた。この名前はビートルズが出演する予定だったハンブルグのクラブの名から取っている。このクラブは開店後わずか1周間で不審火による火事で焼失してしまい、ウーラーは失業する。

ウーラーと知り合ったビートルズは、彼に演奏の仕事を企画できるかと尋ねた。その頃のビートルズは、彼らの初めてのハンブルグ滞在が、ジョージの国外追放やポールとピートの逮捕など、嬉しくない事件で帰国を余儀なくされたため、意気消沈のムードだった。

ウーラーはプロモーターのブライアン・ケリー (Brian Kelly 通称:BK) に連絡を取った。ウーラーは時折、ケリーが主催するビーケイ・ナイツ (Beekay nights) というショーで司会をやっていたのである。ケリーは乗り気でなかった。ビートルズは昨年の5月、先約であるケリーとの契約を無断ですっぽかして、ジョニー・ジェントル (Johnny Gentle) とツアーに出ているからである。しかしながら最終的には、ビートルズがリザーランド・タウン・ホールでのショーに出演することを認め、6ポンドの出演料を払うことに合意した。宣伝ポスターにはビートルズの他に、ザ・デル・リーナス (The Del Renas)、ザ・サーチャーズ (The Searchers)、ザ・デルトーンズ (The Deltones) の名もあった。

ビートルズ出演の決定は遅かったため、彼らの出演の広告が十分でなかった。そのためケリーは他に自分が所有するレーサム・ホール (Lathom Hall) やアレクサンドラ・ホール (Alexandra Hall) などのショーで、彼らの出演を宣伝した。またすでに刷り上がっていたポスターに「ハンブルグ直送 ザ・ビートルズ!」の文字を加えて修正している。
  

僕らは全員、ハンブルグにいた時に採用した黒い服を着た。リヴァプールの女の子はみんな言ってた「ドイツから来たの?」「ドイツから来たって新聞で見たわ!」

 

ポール・マッカートニー
アンソロジー

  
当時ビートルズはリヴァプールの北部ではほとんど知られておらず、リザーランドの常連客のほとんどは彼らをドイツ人のグループだと思っていた。ハンブルグでの長時間の演奏で得た経験と音楽的技量の蓄積は、ついにその利子を払い始めようとしていた。オープンニング・ナンバーの「のっぽのサリー (Long Tall Sally)」を演奏し始めたその瞬間から、ビートルズは観客を感電させた。そしてその反響の波が自然に起こり、ステージに寄せ返した。
  

リザーランドはビートルズ開運の爆発だった。僕らは1500人ほど収容できるダンスホールでダンスのための音楽を演奏していたんだ。しかし僕らが演奏を始めると、彼らはダンスを止めた。そして群衆は僕らの近くに攻め寄せて来て、僕らの動きをじっと観察し始め、さらには金切り声を張り上げて叫び始めた。人々は悲鳴をあげるためにダンスにいくわけじゃないから、これはニュースだった。

 

ピート・ベスト

  
このショーの終了直後、ブライアン・ケリーはその後の一連のショーに、1回6~8ポンドでビートルズをブッキングする。他のプロモーターが彼らと契約するのを阻止するためである。

ビートルズのリヴァプールでの名声は、ただの一晩で出来上がった。このリザーランド・タウン・ホールに初出演してから後、彼らは献身的な地元の従者と、すべてのショーを観覧する多くのファンを従えることになった。
これ以降、彼らは決してうしろを振り返ることは無かった。

  

  

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