1958年 (昭和33年) 7月12日 土曜   前の記事 目次 次の記事
 録音:In Spite Of All The Danger / That'll Be The Day

  
この日クオリーメン (Quarrymen) は、フィリップス・サウンド・レコーディング・サービス (Phillips' Sound Recording Service) というリヴァプールのホームスタジオで2曲を録音する。これはジョンとポールとジョージをフィーチャーした、彼らの初めてのレコーディング・セッションであった。

そのスタジオはパーシー・フランシス・フィリップス (Percy Francis Phillips) によって経営され、ケンジントン38番地にある彼の自宅 (ヴィクトリア王朝風のテラスハウス) のリビングをベースに改造したものだった。

クオリーメンは「In Spite Of All The Danger」とバディ・ホリー (Buddy Holly) の「That'll Be The Day」をアレンジしたものを録音する。前者はPaul McCartney-Harrison作と記され、ジョンがリードヴォーカルをとっている。
  

レーベルには僕とジョージとあるけれども、実際は僕が書いた曲だったと思う。ジョージはギターソロを弾いた。僕らは仲間だったし、誰も著作権や版権のことなんて言わなかった。誰も知らなかったんだ。僕らがロンドンに行ってからでも、曲は全員の共有だと実際思ってたよ。曲はただ宙に漂うもので誰も手に掴むことはできないとマジに思ってた。僕はこれを何回か言っているけど本当なんだ。あの時はジョージがギターソロを弾いたので、僕らはそれを「ジョージが書いた」と解釈したというわけなんだ。

 

ポール・マッカートニー
「The Complete Beatles Recording」マーク・ルイソン

  
このレコーディングにかかった費用は17シリング3ペンスで、直接10インチ78回転のアルミとアセテートのディスクにプレスされた。そのスタジオの記録簿には「スキッフル 10インチ両面 ダイレクト 11/3」とシンプルに記されている。

この2曲ではポールの学友ジョン・ダフ・ロウ (John 'Duff' Lowe) がピアノで参加している。彼はジェリー・リー・ルイス (Jerry Lee Lewis) の「Mean Woman Blues」の初めのアルペジオが弾けるという能力を買われて駆り出された。彼は後年、レコーディングの前準備について回想している。
  

僕はフォースリン通り (Forthlin Street) のポールの家でやったリハーサルをよく覚えている。彼はこういう演奏をしたくて、ピアノはこういう風にしたいとかいうことにとても綿密だった。即興の入る余地はなかったね。僕らは僕らのプレイを指定されたんだ。

 

ジョン・ダフ・ロウ
「A Hard Day's Write」スティーヴ・ターナー

  
この日の正確な日付についてはずっと論争されている。2005年にこの建物の前面の壁に設置させた銘板 (blue plaque) には、このセッションは1958年7月14日(月)だったと刻まれていた。しかしその日の記録簿にスキッフル・グループの記帳は見られない。

ロウはメンバーがスカーフを巻いていたことから、1957年の10月か11月の寒い季節だったと回想する。またコリン・ハントン (Colin Hanton) も寒い季節で、ジョンが音量を下げるためにスカーフでスネア・ドラムを覆うことを提案したと語っており、ロウの記憶を支持する。
  

僕らはアンプとギターを持ってバスで行ったのを覚えている。ドラマー (コリン・ハントン) は別行動だった。他の人がデモを録っていたのでしばらく外の待合室で待ち、それから僕らの番が来た。僕らはその部屋に入ったが、パーシーは隣のコントロール・ブースにいたので姿は見えなかった。「オーケー、君ら何をやる?」それで僕らは大急ぎでやった。15分ぐらいだったかな。それで終わりだよ。

 

ポール・マッカートニー
「The Complete Beatles Recording」マーク・ルイソン

  
クオリーメンは1本のマイクに向かって選んだ2曲をライブ演奏した。そのテープ録音は10インチのシェラック・ディスク (shellac disc) をプレスした後、消去された。これはコストダウンのためにフィリップスがやるいつもの方法だった。ところがクオリーメンは全員合せても15シリングしか持ってなかったので、彼らが全額を持ってくるまでディスクを渡さなかった。
  

そのレコードを手にした時、1周間交代で順番にみんなに回すことになった。ジョンが1週間持って僕に渡した。僕も1週間持ってジョージに渡した。それからコリンが1周間持ってダフ・ロウに渡したが、彼はそれを23年間持った。

 

ポール・マッカートニー
「The Complete Beatles Recording」マーク・ルイソン

  

    
ロウは1981年までこのディスクを靴下の引出しに保管したが、いくらか金になるかもしれないと思い付き、サザビー (Sotherby's) で鑑定してもらう。そしてそのことはサンデー・タイムズ (Sunday Times) の記者ステファン・パイル (Stephen Pile) によって報道された。
  

あの日曜日の正午前にポール・マッカートニーがリヴァプールの僕の母に電話してきた。そこから僕と連絡がついて、電話で彼と話した。彼が例のディスクを僕から買い取りたいというので、その後数日間に渡って長い会話をした。僕は当時ウォーセスター (Worcester) に住んでいて、彼は弁護士とビジネスマネージャーを送ってよこした。僕はそのディスクを小さなブリーフケースに入れて地元のバークレー銀行 (Barclay's Bank) に預けていた。僕らはその銀行が好意で使わせてくれた小さな一室で会談し、取引は成立した。僕はそのレコードを手渡し、みんな家に帰った。

 

ジョン・ダフ・ロウ
「A Hard Day's Write」スティーヴ・ターナー

  
最終的にポール・マッカートニーがいくら支払ったのかは開示されていないが、ロウは最初に提示された5,000ポンドという金額を拒否したことが知られている。
  

僕は凄く膨れ上がった値段でついにそれを買い戻したんだ。そしていくつかレプリカを造ったよ。当時のデモ・レコードはシェラック製だからすぐに摩耗するんだ。そんなレコード盤に針を落としたくないからね。でも手元に置けて嬉しいよ。

 

ポール・マッカートニー
アンソロジー

  
そのディスクを手に入れてから、ポールはできるだけ音質を改善するように音響技師に手配する。そして50枚ほどそのコピーを造って家族や友人に配った。

この2曲は1995年に「アンソロジー1」でついにリリースされた。以降「Inspite Of All The Danger」は時折りポールのライブ・ショーでも演奏され、特に2005年のワールド・ツアーで顕著である。

  

  

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ジョン、リヴァプールで撮影 ジュリア・レノン死去