1958年 (昭和33年) 7月15日 火曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
ジュリア・レノン死去 |
ジョン・レノン (John Lennon)
は1946年から、リヴァプールのメンローヴ通り (Menlove Avenue)
25番地の通称「メンディップス
(Mendips)」と呼ばれる家に、母ジュリアの姉であるミミ
(Mimi:Mary Smith) とその夫ジョージ (George Smith)
と一緒に住んだ。これはジュリアが息子の養育を彼らに託して以降のことである。
しかしジュリアはジョンと別居するようになってからも、ほとんど毎日彼に会いに来た。
1957年にジュリアはジョンにとって最初のギター、ギャロトーン
(Gallotone) のチャンピオン (Champion)
というアコースティック・ギターを買ってやる。これは「割れない補償」付きの安価なギターだった。ミミは不賛成だったが、ジュリアはジョンのロックンロール好きに理解を示し、彼がクオリーメンで演奏する様子も見ている。
ジョンが17歳の1958年7月15日、ジュリアがミミの家を離れた直後、バス停に向かうためメンローヴ通りを横切る時、車にはねられて死亡する。その車を運転していたのはエリック・クレイグ (Eric Clague) というその当日は非番の24歳の警察官だった。
いくつかの報道に反して、彼は酒は飲んでいなかった。また彼は時速30マイル
(約48km)
の制限速度内で運転していた。しかしながら彼は添乗者の付き添いを義務付けられている見習い運転手
(learner driver) でありながら、その義務を怠っていた。
レノン夫人はいきなり僕の前に飛び出してきた。避けきれなかった。誓ってスピードは出してなかった。あれは誰の過失も問えないそうした悲惨な事故の一つだった。 | |
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エリック・クレイグ (1998) |
ジョンの幼友達のナイジェル・ウォーリー (Nigel Walley)
は後年、事故について語った。
あの日の晩、僕はジョンを誘いに行った。でも彼の叔母さんのミミは、ジョンは出かけたと言う。ミミは帰ろうとするジュリアと門前で立っていた。僕らは立ち話をして、ジョンのママは「いいわ。あなたに私をバス停までエスコートする特権をあげる。」と言った。「光栄です。喜んで。」と答えた。
僕らは一緒にメンローヴ通りを下って行き、僕は途中で僕の住んでいるヴェイル通りにそれた。その道を15ヤードほど登った時、車がスリップする音が聞こえた。とっさにふり返るとジョンのママが宙に浮いているのが見えた。走って戻ったが、彼女はもう死んでいた。 |
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ナイジェル・ウォーリー |
ウォーリーはミミを呼びにメンディップスまで走った。彼女は救急車を待つ間、狂乱の様で泣き叫んだ。
午後9時45分頃、故人は私の家 (メンローヴ通り) を離れ、ぶどう園の向かい側にあるバス停の方向に行きました。まもなく彼女が負傷したことを私は知らされました。私は現場に行きました。彼女の意識は不明でした。私は彼女に付き添ってセフトン・ゼネラル病院 (Sefton General Hospital) に行きました。そこに到着した時には彼女は死亡していました。 | |
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ミミ・スミス |
ジュリアの夫ジョン・ディキンズ (John Dykins)
は、レノンを連れてセフトン・ゼネラル病院 (Sefton General
Hospital)
へタクシーで駆けつける。しかしレノンは母の死顔を見ることを拒否している。
ディキンズ自身も後の1965年12月に自動車事故で死んでいる。
僕はジョンの姿をその後ずいぶん長い間見なかった。彼は人目を避けて隠遁者みたいになったんだ。それは僕を悩ませた。「ジョンは事故を僕のせいだと思っていないだろうか」「もしナイジェルがもう1分長くママと話していてくれさえすれば、とジョンは僕を恨んでないだろうか」こんな風に考えて僕の心の奥は揺れ動いていた。でもそれは杞憂だった。 | |
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ナイジェル・ウォーリー |
ジュリアは44歳だった。検死解剖の結果、頭蓋骨破砕による脳の大規模な損傷が死因と判明した。一月後の死因審問で「偶発事故による死」という評決が記録されている。
あの時僕は遺族に弔詞を送ることも考えたが、それは事を悪化させるだけだと思って留まった。彼らはとても怒っていたし、事故で気が動転していた。むりもない。当然だと思う。 | |
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エリック・クレイグ (1998) |
死因審問においてエリック・クレイグは無罪とされた。彼は事故の後、ジョンの家族に接触しようとはしなかった。
クレイグは事故の詳細を解明するための死因審問で陳述している。
私はリヴァプール・ラミリーズ通 (Ramillies Road) 43番地に住む、リヴァプール市警察の巡査126Cです。私はこの事件に関係する自動車LKF630の運転者でした。私は自分からハート警部に対してなされた供述の読み上げを聞きました。それに相違ありません。 | |
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エリック・クレイグ |
ビートルズが世界的に有名になった1964年、クレイグはジョン・レノンの母親を殺したのは自分だということに気づく。
他のみんなと同じように、僕は彼らのことを新聞などで読み始めた。また彼らはTVから消えることがなかった。僕はジョン・レノンの母親は亡くなっていて、ジョンはメンローヴ通に住んでいたことを読んだ。
僕はその2つの事実をつなぎ合わせて、僕が殺したのは彼の母親だったことを悟った。すべての記憶が甦って来てひどい気分になった。それは最も恐るべき効果を僕に与えた。いたるところがビートルズだった、特にリヴァプールでは。あの事故を忘れるほんのわずかな時間も僕には与えられなかった。 |
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エリック・クレイグ |
クレイグは後に警察を辞めて郵便配達人になる。彼の担当地区にはフォースリン通20番地のポールの実家も含まれていた。
僕の巡回担当地区にはポール・マッカートニーが以前住んでいたフォースリン通があった。ビートルズの名声がその最高潮にある頃、僕は何百通もの葉書や手紙をその家に配達していたんだ。大きな荷を担いで道を必死に登っていたよ。でも結局その配達物はジョン・レノンと彼の母親のことを思い出させるものとなった。 | |
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エリック・クレイグ (1998) |
ジュリアの死はジョンの心の深い傷となった。ジョンは後に「Julia」「Mother」「My
Munny's
Dead」で母のことを歌っている。また彼の最初の息子ジュリアン
(Julian Lennon) は彼女の名に因んで名付けられた。
彼女はリヴァプールのアラートン共同墓地 (Allerton Cemetery) で眠っている。