1957年 (昭和32年) 1月16日 水曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
キャバーン・クラブ 開店 |
ビートルズが300回近くのライブ・パフォーマンスを行った後に、世界にその名が知れ渡るキャバーン・クラブ
(The Cavern Club)
は、1957年1月16日の夜に初めてその扉を開けた。
その開店を告げるチラシには、マージーシッピィ・ジャズ・バンド
(The Merseysippi Jazz Band)、ウォール・シティ・ジャズメン (The
Wall City Jazzmen)、ラルフ・ワトモー・ジャズ・バンド (The
Ralph Watmough Jazz Band)、コニー・アイランド・スキッフル・グループ
(Coney Island Skiffle Group)の名が書かれ、またウォーンクリフ伯爵
(Earl of Wharncliffe)
として知られるドラマーによるパフォーマンスがメインイベントになるはずであった。しかしその夜、伯爵は現れなかった。
私はリヴァプール記者クラブのメンバーだったが、メンバーの他の一人がウォーンクリフ伯爵を提案した。そしてそれを記事にしようと言ったんだ。だが結局彼は現れなかった。というのも彼は当時シレンセスター農業大学 (Cirencester Agricultural College) にいたんだが、「演奏の仕事をやめて大学にもどれ。さもないと追い出すぞ。」という最後通告を受けたんだ。そんなわけで彼は大学に引き戻されたが、そのことを私に知らせてはくれなかった。最終的に私が連絡を受けた時には、もうみんなクラブの中に入っていた。私は、彼は来ないとアナウンスしなければならなかった。だけどみんな開店の夜のキャバーンにいること自体に感動していたから、少しもがっかりしてなかったね。いいバンドを呼んでいたし、みんな素晴らしい時間を過ごしたよ。伯爵が来なかったことは、逆に良いエピソードを作ってくれた。彼はそこらじゅうで演奏していたから、彼が出演できなかったという事件は国民的な話題になったんだ。 |
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アラン・シトナー
(キャバーン創始者) |
キャバーン・クラブはアラン・シトナー (Alan Sytner)
が経営し、もともとはジャズとブルースの店としてオープンする。シトナーはパリの「カヴォー・ドゥ・ラ・ユシェット
(Le Caveau de la Huchette)」というジャズクラブを訪れてキャバーンのアイディアを得た。開店に先立って、キャバーン・クラブはリヴァプール・エコー
(Liverpool Echo) やメロディ・メーカー (Melody Maker)
などさまざまな新聞に書かれている。シトナーは開店日を大いに宣伝した。それが成功を確かなものとするのに役だった。
シトナーはリヴァプール・マシュー通り10番地 (10 Mathew
Street, Liverpool)
の建物を音楽会場に改造する。かつてここはワイン貯蔵庫、防空壕、倉庫などとして使われていた。その地階部分は58フィート✕39フィート、深さは地下11フィートだった。
私はロックンロールを好きではなかったのですが、当初のプランはビル・ヘイリー&彼のコメッツ (Bill Haley & his Comets) のUKツアーをキャバーンを皮切りにするというものだったんです。彼らは定期的にこちらに来ていて、デイリー・ミラー紙はもし彼らの初公演がキャバーンなら、これは良いアイディアだと考えました。しかしそれは無謀な企画で、実現しませんでした。当時、キャバーンでロックンロールを上演する可能性はまず無かったでしょう。ロックンロールバンドと呼べるものは地元にはまったく無く、ロンドンにもほとんどありませんでした。 |
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アラン・シトナー
(キャバーン創始者) |
その建物は第二次大戦中にシェルターとして利用するため補強されていた。だから余分なレンガを大きなハンマーで取り除かなければならなかった。
私たちはそれを手作業で行い、大量の瓦礫が出ました。それはステージの理想的な基礎となりました。ステージはレンガを木で覆って造ったんです。それは音響バランスに大きな効果を上げました。キャバーンの音響は素晴らしかった。本当に見事なものでした。 |
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アラン・シトナー
(キャバーン創始者) |
ステージはハリー・ハリス (Harry Harris) とその息子イアン (Ian)
という地元の2人の大工が造った。ハリーはポール・マッカートニーの叔父である。彼らはまた階段を改造し、女子用トイレも造った。
この初日、午後7時にキャバーンへのドアは開いた。
僕らは6:45pmにマシュー通りに行くとキャバーンの入口からホワイトチャペルまで延びる行列ができていた。僕たちは楽器を持ってどうにかキャバーンに入り、ステージ脇のバンドルームへ進んだ。そこはすでに他のバンドの楽器でいっぱいだった。僕はある段階で天井に穴が空いているに違いないと思った。水が壁をつたって流れ落ちて来るんだ。でもそれは狭い空間に閉じ込められた600人の熱気が原因だった。ロジャー・バスカーフィールド (コニー・アイランド・スキッフル・グループ) はある段階で意識がもうろうとなった。僕たちはかなりいい演奏をして4ポンドの報酬を受け取った。ウィラル (Wirral) への最終列車には間に合わなかったので、それは全部タクシー代に消えたよ。 |
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ロジャー・プランシェ |