1962年 (昭和37年) 9月7日 金曜 前の記事 目次 次の記事
 ライヴ演奏:ビレッジ・ホール/アービー

  
ビートルズはウィラル・ヘスウォール・アービー (Irby, Heswall, Wirral) のシングウォール (Thingwall) 15番にあるビレッジ・ホール (Village Hall) に1度だけ出演している。

この会場はその当時、メアリー・ニュートン (Mary Newton) が経営するニュートン・ダンシング・スクール (Newton Dancing School) のメイン会場であったが、彼女は月に1回、14歳から18歳の生徒を対象としてダンスパーティーも開催していた。入場チケットは7シリングであったが、主催者はブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) とあらかじめ妥結していたビートルズの出演報酬の35ポンドを集められず、20ポンドしか受領できなかった。

そこで不足の金額を賄うため、このホールの向かいにあるローン・ボーリング用の広場でがらくた市が開催された。エプスタインは自分のロールス・ロイスでここに集金しに戻っている。

ビートルズの出演終了後、ジョージはギターの弦を入れていた厚紙製のスーツケースを置き忘れていった。そのケースは圧縮厚紙製でプラスチックの縁取りがあり、サイドにはジョージ・ハリスンのイニシャルが書かれ、また小さな文字で「Mr. George Harrison c/o Beatles Party」とも書かれていた。

そのスーツケースは地元のザ・スペイズ (The Spades) というバンドのドラマーのデイヴ・アーラム (Dave Irlam) が持ち帰った。メアリー・ニュートンにビートルズを推薦したのは彼であった。

デイヴの父のアーニーはエプスタインが残金の集金に来た時にそのことを伝えると、エプスタインは誰か他の者を取りによこすと告げた。しかし誰も取りに来なかったし、中は空だったので屋根裏に片付けられた。そして再発見されるまで40年間そのままになっていた。
  

彼らは新しい機材を持ってここに来た。すばらしい物だった。しかし中には古いがらくたもあった。ひとつの時代の終りだった。我々は彼らに支払う金を全額集めることができなかったので、数日後にエプスタインが残金を受け取りに私たちの家に立ち寄った。彼はとても怒っていた。

私が彼に古いスーツケースを忘れないように言うと、彼は他の者をよこすと言った。しかし誰も来なかった。およそ15年後に私が屋根裏でそれを見つけると、あれはビートルズが置いてったケースだとデイヴは言う。今や有名となった彼らにはあんなケース要らないだろう。

その夜、レノンは私の息子に「照明やる?」と言った。彼が「やる」と言うと、レノンは言った「僕らがBlue Moonを演奏するとき、あの青いライトを点けてくれ。できるか? OK。」

 

アーニー・アーラム

  
そのスーツケースはロンドンのボーナム (Bonhams) でのオークションでは、2,500ポンドの最低競売価格に届かなかった。しかし2004年に匿名のバイヤーが5,500ポンドで買っている。それは現在ワラジー (Wallasey) のニュー・ブライトン (New Brighton) にあるマージービート博物館 (Merseybeat Museum) に展示されている。

このアービーのビレッジ・ホールでの出来事は後に、ウィラルの劇作家ベヴ・クラーク (Bev Clark) とマイク・ロックリー (Mike Lockley) を触発して『ジョージ・ハリスンのスーツケース (The George Harrison Suitcase)』という劇になった。

メアリー・ニュートンはこの日のショーのチケットと、エプスタインのブッキング確認の手紙を引出しにしまって置いたが、それらは2004年のクリスティーズ (Christie's) のオークションで、2つ合わせてやはり5,500ボンドで外国の匿名のバイヤーが買っている。
  

あの夜は私がボスだった。ビートルズはバンドの1つでしかなかったけど、彼らはいいグループだった。観客はみんな彼らを応援していた。彼らは『Love Me Do』とか初期のものを演奏した。

最近私が引っ越す時にそれらは出てきた。何冊かの本を取り出していると、何かが落ちて「床に落ちてるアレは何?」

 

メアリー・ニュートン

  

  

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