1962年 (昭和37年) 1月1日 月曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
デッカ・レコードのオーディション |
有名なデッカ・レコードによるビートルズのオーディションは、1962年の元旦にロンドンで行われた。
このセッションは1961年12月13日にマイク・スミス (Mike Smith) が、このレコード会社のA&R*の代表としてキャバーン・クラブを訪れ、ビートルズの演奏を見た結果を受けて開催されたものであった。その夜の彼らのパフォーマンスは、すぐにレコード契約を保証できるほどのものではなかった。しかしスミスは意欲的で、デッカのスタジオで改めてオーディションすることを彼らに提案したのである。このスタジオはロンドンのウェスト・ハムステッド区 (West Hampstead) ブロードハースト・ガーデンズ (Broadhurst Gardens) 165番にある。
*レコード会社における職務の一つ。Artist and Repertoire(アーティスト・アンド・レパートリー)の略。アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する。
ジョン・レノン (John Lennon)、ポール・マッカートニー (Paul McCartney)、ジョージ・ハリスン (George Harrison)、ピート・ベスト (Pete Best) の4人は、ローディー*のニール・アスピノール (Neil Aspinall) が運転するヴァンでリヴァプールから移動した。吹雪の天候にたたられ、一行は11:00amからのオーディションにぎりぎりで間に合った。ブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) は彼らとは別に列車で移動している。
*roadie: 楽器の手配、積み込み・積み卸し、輸送、セッティング、エフェクティングといったコンサート業務や、楽器のメンテナンスおよび管理、ミュージシャンに対するサポートなどの業務を行う人々のこと。
スミスは大晦日の夜にハリキリ過ぎて遅れて来た上に、ビートルズの使ってるのは音が問題外だからデッカのアンプを使えと言ってきかず、ビートルズの神経を逆撫でた。
この時ビートルズは合計15曲を録音している。 (曲順は推定)
・Like Dreamers Do
・Money (That's What I want)
・Till There Was You
・The Sheik Of Araby
・To Know Her Is To Love Her
・Take Good Care Of My Baby
・Memphis, Tennessee
・Sure To Fall (In Love With You)
・Hello Little Girl
・Three Cool Cats
・Crying, Waiting, Hoping
・Love Of The Loved
・September In The Rain
・Besame Mucho
・Searchin'
「Like Dreamers Do」「Hello Little Girl」「Love Of The Loved」の3曲は、レノン=マッカートニーのオリジナル。ほとんどの曲はオーバー・ダビング無しの一発録りで録音されたらしく、おおよそ1時間で全曲の録音が終了している。
「Searchin'」「Three Cool Cats」「The Sheik Of Araby」「Like Dreamers Do」「Hello Little Girl」の5曲は、1995年にリリースされたアルバム『アンソロジー 1』に収録されている。残りの曲も1977年以降に出回った多くの海賊版で聴くことができる。
緊張のためにビートルズの演奏は最高とは言えないまでも、メンバー4人とブライアン・エプスタインは、このセッションがデッカとの契約に結びつくことを確信していた。ところがそのレコード会社は、同じ日にオーディションを受けたブライアン・プール&ザ・トレメローズ
(Brian Poole & The Tremeroes)
に寝返ってしまったのである。デッカA&R部のトップだったディック・ロウ
(Dick Rowe) は後にこう語っている。
私はマイクに「どちらにするのか君が決めろ」と言った。ビートルズか、それともトレメローズか、それは彼次第だった。彼は「どちらもいいんです。ただ一方は地元のグループで、他方はリヴァプールからのグループです。」と言った。そして地元のクループを取った方が良いという結論になった。彼らはダグナム (Dagenham) から来ていたので、仕事がやりやすいし親密でいられると考えた。 | |
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ディック・ロウ |
しかし公式の理由は「エプスタインさん、ギター・グループは消えゆく運命ですよ」というものだった。この言葉は世間に広く知られ、ディック・ロウは後に「ビートルズを蹴落とした男」という悪名を背負うことになった。しかしジョージ・ハリスンの推薦を受けて、ローリング・ストーンズ
(The Rolling Stones) と契約するのも彼なのである。
ブライアン・エプスタインはその結果を黙って受け入れはしなかった。彼はロンドンに戻ってデッカと再び折衝し、デッカがリリースするビートルズのすべてのシングル盤に付き、彼が3,000枚の買い取りを保証すると販売部に約束までした。ディック・ロウがこのことを知らされていたなら、歴史はまったく違っていたかもしれない。
あの時点では私はそのことを聞いていなかった。当時のレコード業界の常識を考えると、3,000枚の売上げが確実ということになれば、たとえそれが何者であっても、そのレコードを出さざるを得なかっただろう。 | |
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ディック・ロウ |
しかしながら、デッカのオーディション落選とその録音テープは、結果的にビートルズにとって幸運だったことになる。彼らがデッカと契約していたら、ビートルズのキャリアにリンゴ・スター
(Ringo Starr)
は関係して来なかったかもしれない。彼はジョージ・マーティン
(George Martin)
が、ピート・ベストのドラミングに不安を表明した後にグループに加わったのである。
またこのオーディションは、エプスタインにビートルズの高品位なオープンリールの録音テープを提供し、彼がそれをロンドンの他のレコード会社に持って行くことを可能にした。
ロンドンのオックスフォード通り (Oxford Street) にあるHMVレコード店の店長は、もっと簡単に再生できるように、オープンリールのテープからレコード盤を作ることをエプスタインに提案した。エプスタインも同意して、さっそくそのレコード店の上にあるスタジオとプレス工房にテープを持って行った。
エンジニアのジム・フォイ (Jim Foy) はその録音に感動した。エプスタインがその内の3曲はレノン=マッカートニーの自作だと言うと、フォイは音楽出版のアードモア&ビーチウッド社 (Ardmore & Beechwood:EMIの子会社) のシド・コールマン (Sid Coleman) にそのことを伝え、そしてコールマンはエプスタインに出版契約をオファーする。
エプスタインの優先すべきはビートルズをレコード会社と契約させることであった。そこでコールマンはビートルズのマネージャーとパーロフォン・レコード (Parlophone Record) のA&Rのトップを会わせる手はずを調える。これによりブライアン・エプスタインとジョージ・マーティンの面談が実現したのであった。デッカの録音を聴いて十分に興味を感じたマーティンは、アビー・ロード (Abbey Road) でのオーディションをエプスタインに申し入れる。
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ライヴ演奏 キャバーン・クラブ (夜) |
ライヴ演奏 キャバーン・クラブ (夜) |