1961年 (昭和36年) 12月17日 日曜   前の記事 目次 次の記事
 ビートルズ初のフォト・セッション

  
1961年の12月、マネージャーのブライアン・エプスタイン (Brian Epstein)* は、ビートルズの写真撮影を依頼するために、地元の婚礼写真屋のアルバート・マリオン (Albert Marrion) と連絡を取っていた。

*エプスタインは1961年12月10日にビートルズのマネージャーになりたいと彼らに申し出ているが、その契約書 (期間5年) に双方がサインするのは、1962年1月24日である。

その撮影が行われたのがこの日であった。これはビートルズにとって初めての仕事としての撮影セッションであった。彼らは過去にも何回か撮影されていて、ハンブルグでのアストリッド・キルヒャー (Astrid Kirchher) やユルゲン・フォルマー (Jurgen Vollmer) による写真が有名であるが、契約的に取り決められた、つまりギャラがもらえる撮影はこれまで無かった。

1961年12月17日、ビートルズとエプスタインはマージーサイドのワラジー・ヴィレッジ (Wallasey Village, Merseyside) 268番にあるマリオンのスタジオに到着する。
  

1961年の12月中旬、ブライアン・エプスタインが電話で、彼がマネージメントを始めた4人の少年の写真を撮ってくれないかと言ってきました。はじめはその仕事を請け負うことをためらいました。我々は肖像写真と婚礼写真が主のスタジオでしたから。実際彼が私に連絡してきた理由は、彼の弟クライヴ (Clive Epstein) の婚礼写真を撮ったのが私だったからです。

私はブライアンから、彼らは全身レザーのみすぼらしい外見のグループだがまったく害は無いと聞いてました。私はその仕事を引き受けることに決め、次の日曜の12月17日にワラジーにある私のスタジオへ、彼らを連れて来てくれるように彼に告げました。

はじめ私はパートナーのハーバート・ヒューズ (Herbert Hughes) にこの仕事を頼んだのですが、彼はビート・グループとは関わりたくないと言ってきっぱり断りました。

日曜の朝がやって来て、4人のビートルズも私のスタジオにやって来ました。私はその日はレザーのジャケットとズボン、ポロシャツ、スエードの靴だったのを覚えています。ブライアンはこのセッションに先立って彼らに話をしていたので、彼らは遊び半分の様子でした。時々ジョン・レノンは舌を突き出しておちゃらけていました。ジョンとポールは撮影中ほとんどずっと冗談を言い合って笑っていました。ジョージ・ハリスンは静かで、ピート・ベストはほとんど何もしゃべりませんでした。

私は額が禿げ上がっていて、その日は雨だったものですから、私をたびたび「カーリー (巻き毛)」と呼ぶジョンにいらだちを感じ始めました。

この撮影はパートナーのヒューズの意に反しながらも、エプスタインへの友情の証としてなされました。私は30枚のビートルズの写真を撮りましたが、多くはジョンとポールの悪ふざけがポーズを台なしにしているので、16枚のネガだけを残して他は捨ててしまいました。今ふり返れば、捨てるべきではなかったのは言うまでもありません。

 

アルバート・マリオン

  
16枚の写真だけが残っているとマリオンは回想しているが、17枚が現存している。その内の1枚は後に1962年1月のマージー・ビート誌の表紙を飾り、また宣伝用のカードにも使われて著名な1枚となっている。
  

左はマージー・ビート誌の表紙を飾った著名な写真のマスター・プリント。

  

  

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ライヴ演奏
キャバーン・クラブ (夜)
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