1961年 (昭和36年) 12月13日 水曜   前の記事 目次 次の記事
 ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (夜) /リヴァプール

  
ビートルズはこの日ランチタイムショーとイブニングショーの2回、キャバーンに出演している。このイブニングショーにデッカ・レコードのA&R*アシスタント、マイク・スミス (Mike Smith) が来ていなかったとしたら、この日付が有名になることはなかったであろう。

*レコード会社における職務の一つ。Artist and Repertoire(アーティスト・アンド・レパートリー)の略。アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する。

スミスの来訪はブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) がトミー・バーロウ (Tommy Barrow) にコネを持っていたことがもたらした。バーロウはロンドンを根拠地として活動するリヴァプール人で、ディスカー (Disker) のペンネームでリヴァプール・イブニング・エコー紙 (Liverpool Evening Echo) にレコード評論を書いていた。

エプスタインはバーロウに、彼の執筆するコラムでビートルズを紹介して欲しいと頼んだが、バーロウはビートルズがまだいかなる音楽も発表していないことを理由に断った (ドイツで『マイ・ボニー』はリリースされていたが)。しかし彼はビートルズとエプスタインのことを、デッカ・レコードのA&R部局に伝えると申し出た。彼はデッカがリリースするレコードの解説文の執筆も請け負っていたからである。

ビートルズとエプスタインの名はロンドンではほとんど知られていなかったが、エプスタインが経営するNEMSレコード店が持つ小売セールスの影響力は、彼らをデッカに受け入れさせた。それでデッカのA&Rのトップ、ディック・ロウ (Dick Rowe) はマイク・スミスをリヴァプールに送ってきたのである。スミスはエプスタインとの夕食の後キャバーンに連れられ、ビートルズのその日2度目のショーを見た。

スミスは即座にビートルズと契約したいという程の印象は持たなかったが、1962年の元旦に正式なオーディションをロンドンで行う手はずを準備する。

この日のランチタイムショーでの出演者はビートルズのみだった。イブニングショーでは他にジェリー&ザ・ペースメーカーズ (Gerry & The Pacemakers) とザ・フォー・ジェイズ (The Four Jays) も出演している。

これは彼らの32回目のキャバーンのイブニングショーへの出演であり、昼夜のダブルヘッダーでのキャバーン出演は14回目であった。また昼夜ダブルヘッダーはこの日が1961年では最後であった。

ビートルズのキャバーン・クラブへの正確な出演回数は判っていない。しかし1961年2月9日から1963年8月3日までの期間に、少なくともランチタイムショーで155回、イブニングショーで125回の演奏を行っている。

  

  

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ハンブルトン・ホール
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