1961年 (昭和36年) 12月08日 金曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (昼) /リヴァプール |
ビートルズはこの日、2つの重要な出演契約があった。1つ目がこのキャバーンのランチタイムショー。もう1つは、この夜のタワー・ボールルーム
(Tower Ballroom) への出演であった。
地元プロモーターのサム・リーチ (Sam Leach) は、ロックンロール歌手のデイヴィー・ジョーンズ (Davy Jones) をワラジーのニュー・ブライトン (New Brighton, Wallasey) にあるタワー・ボールルームの出演者として契約していた。
一方、キャバーンの経営者レイ・マクフォール (Ray McFall) も、ジョーンズをキャバーンのランチタイムショーにブッキングしていた。
ビートルズはこの両方のショーに自ら出演すると同時に、ジョーンズのバックバンドも務めている。
彼らが初めてコカインを知ったのがこの日である可能性は大いにある。当時のイギリスで広範に普及していたというわけではないが、一部の人々は休養・娯楽的な目的でこの薬剤を使用していた。知らずにこれと関わった一人がキャバーン・クラブの館内DJ、ボブ・ウーラー
(Bob Wooler)
だった。彼にとっては愉快な経験ではなかったという。
僕らが強い薬を使うという場面はけっしてなかった。初めはパープル・ハート
(purple hearts) とか、アンフェタミン (amphetamines)、スピード
(speed)
など、さまざまな名前で呼ばれていたものだった。ビートルズが南の地域へ行くようになると、彼らは時折り大麻
(cannabis)
を持ち帰ってきた。それからしだいにリヴァプールにドラッグ使用が広まっていったんだ。デイヴィー・ジョーンズはビートルズとハンブルグで一緒だった黒人のロックンロール歌手だが、彼がキャバーンに来た時はコカインに遭遇する稀な機会だった。彼はリトル・リチャード
(Little Richard) やデリー・ウィルキー (Derry Wilkie)
のように、エネルギッシュで外向的なタイプで、彼にとって印象深いレコードはオールディーズの『アマポーラ
(Amapola)』だった。その「可憐で小さなケシの花よ
(pretty little poppy)」という歌詞が彼に何かをアピールしたんだろうと思う。
地元で司会者をやっていたアラン・ロス (Alan Ross) がデイヴィー・ジョーンズをキャバーンに連れてきたんだが、その時が僕の最初で最後のコカイン経験だった。ジョーンズに僕の鼻炎のことを話した時、彼は「これで治るよ」と言った。アラン・ロスも同意の笑顔を僕に見せたので試してみると、興奮して天井が吹き飛びそうになった。みんな大爆笑だ。僕はマシュー通りに飛び出して、薬の効果を吐き出そうと懸命に深呼吸した。ドアマンのパット・デラニー (Pat Delaney) が「ロバート! どうかしたのか?」と言ってきて、僕は「何でもない。少しめまいがするだけだ」と言った。ビートルズは両手を広げてジョーンズを歓迎したので、薬はこれで終わりじゃなさそうな予感がしたよ。それがジョーンズとビートルズを結んでいたんだ。彼らはどんなことになってもその仲間でいたいと望んでいた。 |
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ボブ・ウーラー |
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ライヴ演奏 タワー・ボールルーム |
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