1961年 (昭和36年) 10月17日 火曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
ライヴ演奏:デヴィッド・ルイス・クラブ/リヴァプール |
これはビートルズのデヴィッド・ルイス・クラブ (David
Lewis Club)
への唯一の出演であった。この会場はグレート・ジョージ・プレイス
(Great George Place) というリヴァプールの中心部にあった。
そしてこれはまた、1ヶ月前に発足したばかりのビートルズ・ファン・クラブ
(Beatles Fan Club) による最初の公式イベントでもあった。
何をどうしたら良いかも知らないキャバーンの女の子達が、僕らへの好意の表明として即興的にファンクラブをつくったことを知らされた時、僕らの反応は驚きと興味だった。でもビートルズにとって初めてのファンクラブだったので、僕らはとても嬉しく感じた。特にそのメンバーが5ポンドを持ち寄って、デヴィッド・ルイス・シアターの2階ホールでファンクラブ開会の式典を開いてくれたことはありがたく思った。そこは古き良き時代の立派な建物で、リヴァプール大聖堂
(Liverpool Anglican Cathedral) の近くにあった。
僕らはそこでノーギャラで演奏する予定になっていた。それは少し痛かったが、きっとたくさんの寄付があるだろうと聞いて安心していた。でも残念ながらそのあては外れた。僕らはそこに大観衆が集っていると期待したが、たった60人だった。そこにはPAシステムが無く、僕らの二つのアンプもヒューズが切れて使えなくなった。だから僕らはほとんどの時間をステージの縁に座り、ポールの親父の用心深い目を受けながら、鳥としゃべって過ごした。 お気に入りのビートルズ・ナンバーのリクエストがあったが、僕らはマイク無しでそれをやった。僕はキャバーンで僕のソロとして普段やっていた「マッチボックス (Matchbox)」「ペパーミント・ツイスト (Peppermint Twist)」、それとプレスリーの「A Rose Grows Wild In The Country」を歌うことをリクエストされた。その歌詞を忘れていた僕は、歌詞に詰まると、ステージを飛び回り体を屈めてファンと握手を交わすという、プレスリーのものまねに逃げた。ぜんまい仕掛けの人形みたいにね。 ポールの親父は喜んで言った「君は雰囲気をぶち壊したよ。あー、死ぬかと思った。」 ポールもバラードを歌って最善を尽くした。だけど一般的に言えば、あれは宣伝不足がもたらした完全敗北の悲惨な夜だった。 |
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ピート・ベスト |
デヴィッド・ルイス・シアター (David Lewis Theatre)
は広大なデヴィッド・ルイス・センター (David Lewis Centre)
の一部で、1906年に建造された。デヴィッド・ルイス (David
Lewis)
は実業家で、1856年にリヴァプールに最初の店を設立し、次いで1880年にはマンチェスターに大きなデパートを開店させた。彼はそのかなりの財産を、二つの都市の労働階級の人々を利する目的のために残している。
デヴィッド・ルイス信託 (David Lewis Trust) は1893年7月7日に創設され、同時に両都市の管理運営委員会も設立されている。デヴィッド・ルイス・センターは1906年に建造され、ホテル、劇場、スポーツ施設が含まれていた。
主に音楽ホール用に作られたデヴィッド・ルイス・クラブは、アマチュア劇団の舞台としても利用された。後には映画館、またボクシングやビリヤードの競技場としても活用された。
1960年にクラブの床が平坦化されて客席が設置されたが、1977年11月には閉鎖され、1980年10月には道路拡張とリヴァプール大聖堂の近隣地区再開発のために取り壊されている。
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