1957年 (昭和32年) 8月7日 水曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
クオリーメン キャバーン・クラブで初演奏 |
キャバーン・クラブ (Cavern Club)
は、ビートルズがリヴァプールの秘密として留まっていた間は彼らが出演する定例会場だった。しかしながらひと度ビートルマニア
(Beatlemania)
が支配権を握ってしまうと、彼らが故郷の街で演奏するのは非常に稀なこととなる。
1957年8月7日は、クオリーメンがじきに伝説的となるこの会場で、初めて演奏した日だと一般に信じられている。目録にある他の出演者は、ロン・マッケイ・スキッフル・グループ (Ron McKay's Skiffle Group)、ダーク・タウン・スキッフル・グループ (Dark Town Skiffle Group)、そしてデルトーンズ・スキッフル・グループ (The Deltones Skiffle Group) だった。
キャバーン・クラブはアラン・シトナー (Alan Sytner) が所有者で、彼はジョンの友人でクオリーメンのマネージャーのナイジェル・ウォーリー (Nigel Walley) が働くゴルフ倶楽部でプレーした。まだヨチヨチのバンドが、初めてのショーをこの会場で行うことを可能にしたのは、このコネクションだった。シトナーはこのバンドの演奏をリー・パーク・ゴルフ倶楽部 (Lee Park Golf Club) で聞いていた。
スキッフルはミュージシャンの苗代だった。数人はジャズ・ミュージシャンになったが、多くはロックンロールをやるようになった。私はジョン・レノンをよく知っている。彼と同じ地区に住んでいたからね。彼は私の家から400ヤード道を登った所に住んでいた。彼は16歳で、生意気で、それでいて何の足掛りも得ていなかった。だけどそれがジョン・レノンだった。 |
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アラン・シトナー
(キャバーン創始者) |
キャバーン・クラブはこの年の始めの1月17日にオープンしていた。本来ジャズクラブでジャズのセッションをメインとしたが、たまにはスキッフルのセッションを入れることもあった。しかしクオリーメンの出番にはその指針は通じなかった。彼らは「Come Go With Me」でスタートするものの、その後には「Hound Dog」「Blue Suede Shoes」と続く。
僕らはたしかにショーの皮切りにはスキッフル・ナンバーを演奏した。でもやはりロックンロールもやった。ジョンはメモを手渡されて、「リクエストをもらいました」と観客にアナウンスした。メモを開けてみると、それはアラン・シトナーからの伝言で、「くそロックンロールをやめろ!!」 |
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コリン・ハントン |
ポール・マッカートニーはこの時点ではすでにクオリーメンのメンバーだったが、この日はスカウト・キャンプに行っているので演奏していない。
クオリーメンのキャバーンデビューのこの日付については、このグループのバンジョー奏者ロッド・デイヴィス (Rod Davis) が2011年のBBCラジオのインタビューの中で疑問を投げかけている。
デイヴィスは「ラジオ・マージーサイズ・オン・ザ・ビート (Radio Merseyside's On The Beat)」の司会者スペンサー・レイ (Spencer Leigh) に、彼は1957年7月29日に休暇でフランスに行ったと語った。これは8月7日にはクオリーメンがキャバーンで演奏できないことを意味する。デイヴィスはクオリーメンのキャバーンでのデビューは、実際にはその日付の前だと主張する。
間違いない。僕は3回か4回キャバーンで演奏しているが、それは確実に8月より前だ。なぜなら8月には僕はフランスにいた。僕は父のパスポートを持っているが、それには1957年7月29日にブーローニュ (Boulogne) に 入ったと記されている。 ビートルズの伝記作家の一部はリヴァプール・エコー紙に掲載されたキャバーンの広告の記録を調べたと言ってるが、当時は「スキッフル・セッション」と言われるものがあって、その時の広告には有力なミュージシャンの名前だけがリストアップされた。僕らは数日キャバーンで演奏しているが、クオリーメンの名前は広告には載らなかったんだ。 |
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ロッド・デイヴィス |
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