1957年 (昭和32年) 7月06日 土曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
ジョンとポールが出会う |
1957年7月6日の午後、スキッフル・グループのクオリーメン
(Quarrymen) はリヴァプールのウールトン (Woolton, Liverpool)
にある聖ピーター教会 (St Peter's Church) の園遊会 (garden fete)
で演奏する。
そのパーフォーマンスは教会の裏庭のステージで催された。バンドのメンバーは、ジョン・レノン
(John Lennon) がギターとヴォーカル、エリック・グリフィス
(Eric Griffiths) がギター、コリン・ハントン (Colin Hanton)
がドラム、ロッド・デイヴィス (Rod Davis)
がバンジョー、ピート・ショットン (Pete Shotton) が洗濯板 (washboard)、レン・ギャリー
(Len Garry) が茶箱ベース (tea chest bass) であった。
音楽に加えて、手芸品やお菓子の露店、輪投げゲーム、警察犬による演技、薔薇の女王の戴冠式
(crowning of the Rose Queen:親に従順で行儀のよい娘が薔薇の女王に選ばれ,薔薇の冠で飾られて祭で中心的な役割を果たす。)
などもあった。この園遊会はリヴァプールの眠たい地区の住民にとって、一年のハイライトであった。
その日の夕方、コリン・ハントンを除いたメンバーは再び演奏することになっていた。今度は道路の向かい側にある教会ホールでのグランドダンスである。クオリーメンはジョージ・エドワーズ・バンド
(George Edwards Band)
と交代でステージを努めることになっていて、クオリーメンの登場は8:00pmの予定だった。
楽器のセッティングをしている時、クオリーメンの時々の茶箱ベース奏者アイヴァン・ヴォーン (Ivan Vaughan) が、クオリーメンを彼の通うリヴァプール・インスティチュート (Liverpool Institute) のクラスメートに紹介する。これが15歳のポール・マッカートニー (Paul McCartney) であった。
この歴史上の一場面が、ポールとジョンが初めて会った瞬間である。ポールは黒のマンボズボン (drainpipe trousers) をはき、銀色の斑点の付いた白のジャケットを着ていた。ジョンはポールより一学年上級だった。
2~3分の雑談の後、ポールはジョンにギターのチューニングの仕方を教える
(ジョンとグリフィスのギターはバンジョーと同じG調にチューニングしてあった)。そのあとポールはエディ・コクラン
(Eddie Cochran) の「20フライト・ロック (Twenty Flight Rock)」、ジーン・ヴィンセント
(Gene Vincent) の「ビー・バップ・ア・ルーラ (Be-Bup-A-Lula)」、リトル・リチャード
(Little Richard) のメドレーを歌って聞かせた。
園遊会に行ってすべての余興を見た。そしてタンノイ (Tannoy) の小さな音響システムから漂って来るすごい音楽を聞いた。それがジョンとそのバンドだった。 僕は驚いて「おお、すげー」と思った。なぜなら僕は明らかにその音楽にハマってしまっていたんだ。たしかジョンは「カム・ゴー・ウィズ・ミー (Come Go With Me)」という歌を歌ってた。彼はそれをラジオで聞いたんだけど歌詞は知らなかった。でもコーラスは覚えていたので、あとは彼が自分でつくったんだ。 僕は思った「うーん、彼はルックスもいいし歌もうまい。まるで僕のためのリード・ボーカリストみたいじゃないか。」もちろんメガネは外していたから、彼は本当にマイルドな印象だった。ジョンは良かった。彼はただひとり目立つメンバーだったよ。他は目に入らなかった。 |
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ポール・マッカートニー
(1995) |
ジョンもまたポールに感銘を受けた。ポールはクオリーメンが苦労してやっとプレイできるようになった曲を、簡単に歌いこなしてしまう天然の才能を見せたのである。
またポールはこの教会ホールのピアノを弾いたことを回想して語っている。
そういえば僕はステージのうしろにあったピアノを弾いた。ジェリー・リー・ルイス (Jerry Lee Lewis) の「A Whole Lot Of Shakin'」だったと思う。その時ジョンは身を乗り出して来て、僕のプレイに合わせて1オクターブ上を右手で器用に弾いたんだ。そして彼の息がビール臭いことに驚いた。これはショックだったからというわけじゃなくて、この場面は詳しく記憶に残っているというだけなんだ。 | |
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ポール・マッカートニー |
その特定場面の詳細は、ジョンの最初の本「イン・ヒズ・オウン・ライト
(In His Own Write)」にポールが寄稿した序文の中にも見られる。
ウールトンの園遊会で僕は彼に会った。僕は太った学童だったが、彼が僕の肩に腕をもたせかけて来た時、酒を飲んでいるのがわかった。僕らは当時12歳だった。けれども彼のもみあげにもかかわらず、僕らはその後ティーンエージャーの仲間同士になった。 | |
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ポール・マッカートニー |
クオリーメンの演奏部分は驚いたことに録音されていた。ボブ・モリニュー
(Bob Molyneux) という観客が、自前のグルンディッヒ (Grundig)
のポータブル・テープ・レコーダーで録音していた。警察官を退職したモリニューは1994年にそのテープを再発見する。それにはロニー・ドネガン
(Ronnie Donegan) の「Puttin' On The Style」や、エルヴィス・プレスリー
(Elvis Presly) の「Baby, Let's Play House」をクオリーメンが演奏する様子がノイズにまみれて収録されている。
そのテープは1994年9月15日、サザビーズ (Sotheby's) のオークションにおいて78,500ポンドで落札された。録音物としては当時の過去最高値であった。競り落としたのはEMIレコードで、EMIはアンソロジー・プロジェクト (Anthology project) の一部としてリリースを考えていた。しかし音質が標準以下であることを理由に見送った。
クオリーメンは教会ホールでの演奏を終えた後、アイヴァン・ヴォーンとポール・マッカートニーを伴ってウールトンのパブに行く。もちろん年齢は詐称した。
その後ジョンとピート・ショットンは、若いポールをクオリーメンに誘うべきか話し合った。ジョンにとってこれはジレンマであった。才能あるメンバーを入れるべきか?しかしこれはジョンのバンド内での優位を脅かしかねない。それともポール無しでやり通すべきか?これならジョンのリーダーシップは保てる。しかしバンドの成功を遠ざけそうでもある。
彼らはポールは貴重な財産だと結論する。そしておよそ2週間後、ショットンはウールトンを自転車で走るポールに偶然遭遇する。ポールはバンドに加わることをゆっくり考え、最終的にクオリーメンの一員に加わることに同意した。
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