1961年 (昭和36年) 9月30日 土曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
ジョンとポール、パリへ旅行 (マッシュルーム・カットの誕生) |
1961年の10月9日はジョン・レノンの21歳の誕生日であるが、その祝儀として彼は親戚の一人から100ポンドをもらう。その金でジョンはポールと二人でスペインに休暇旅行に行こうと決めて出発する。しかし結局パリまでの行程で終わってしまう。
ジョンの21歳の誕生日を祝って、彼と僕は旅行に出かけた。ジョンは中流階級の家系だったんだ。他のみんなは労働階級の家庭なので、けっこうそれは衝撃の事実だった。ジョンは僕らより身分が高かったんだ。彼の親類は教師とか歯医者で、エンジンバラにはBBCのお偉方の人なんかもいた。彼はいつも「くそやろう」てな調子だったし「労働階級の英雄 (Working Class Hero)」なんて歌も書いているけど、彼自身は労働階級じゃないんだから皮肉なもんだ。まあとにかくジョンは親類の一人から100ポンドもらった。僕は驚いたよ。それで僕は彼の仲間だったから、わかるだろ。「休暇にでかけよう!」「僕も一緒にってこと!? その100ポンドで!? すげー!! 僕もおこぼれに預かれるのか!!」 | |
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ポール・マッカートニー |
2人はスペインまでヒッチハイクと列車を使って行こうとしていた。それで運転手の注意を惹くために山高帽をかぶる。
僕らはヒッチハイクしてスペインに行こうと思ってた。僕はジョージと少し経験があったんで、ヒッチハイクには工夫が要ることを知っていた。僕らは時々拒否されたけど、必ず乗せてもらえる奴らは、例えば英国旗を纏うとか、工夫していることがわかったんだ。だから僕はジョンに「山高帽を買おう」と言った。それはショービジネス的な発想だった。僕らはまだ革のジャケットと細いズボンを自慢に思っていた。だからそれを着て、女の子と会った時には山高帽をとる。でも車に乗せてもらう時にはそれをかぶる。山高帽の二人にはトラックは止まってくれるんだ。ユーモアのセンスだよ。これと列車で僕らはパリまで行った。 | |
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ポール・マッカートニー |
ジョンとポールはビートルズの仕事の予定も空けたため、バンドが分裂したに違いないと思う者さえいた。
僕は昨夜、ジョンとポールが一緒にプレーするためにパリへ行ったと聞いた。それは言葉を代えればバンドが分裂したということだ。おかしいと思った。僕には信じられなかった。 | |
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スチュアート・サトクリフ
(1961) |
スペインに行くつもりだったが、ジョンとポールはフランスに留まることにした。
僕らは初めてそこへ行った。少し疲れたのでその夜は小さなホテルにチェックインした。次の朝ヒッチハイクで出発するつもりだった。ヒッチハイクしてやって来た後だから、ベッドで寝るのはあまりにも気持ちよかった。そして言った「少し長居しようか。」そして考えた「スペインは遠い。ヒッチハイクであそこまで行くのは相当きついぞ。」それで結局パリに1周間居着いてしまったんだ。その費用はジョンが例の100ポンドで全部払った。
僕らはホテルから何マイルも歩いたね。パリではみんなそうするだろ。アングレ通り (Avenue des Anglais) 近くの場所に行ってバーに座った。かっこいい。僕はいまだにその古い写真を持ってるよ。僕が警官のゴム合羽をケープ代わりに着て座り、ジョンがメガネを斜めにしてズボンを少し下ろし、Y-フロントを露出している写真は、リンダのお気に入りだ。それらの写真は僕らが本当に演技していてすごくいい。僕らは「ヘイ、僕らはカフェにいる芸術家だよ。ここはパリだぜ。」てな具合でカメラのレンズを覗きこんだ。実際そんな風に感じてたんだ。 僕らは芸術家やフォリー・ベルジェール (Folies Bergère) を見ようと、モンマルトル (Montmartre) まで登って行った。そこで短い革のジャケットとすごく幅広のパンタロンで歩いている連中を見た。それはひざの部分はぴったりしてるのに、裾は50インチにも広がっていた。僕らのマンボズボンは15~16インチだ。それを見て僕らは「すいません。それどこで買ったんですか?」と聞いた。それは通り沿いの小さな店の棚の下の方に安く売っていたので、僕らはそれぞれ買った。ホテルに帰って、それをはいて、外に出た。ところがとてもはいていられなかったんだ。足元が旗みたいにはためいていたら、細いズボンのほうが快適だと思うだろ。だから急いでホテルに帰り、裁縫して15インチに改造した。それで満足だったよ。それから僕らはユルゲン・フォルマー (Jürgen Vollmer) に通りで会った。彼はまだ写真を撮っていた。 |
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ポール・マッカートニー |
ユルゲン・フォルマーはハンブルグで知り合った友人で、写真の勉強のためにフランスに来ていた。彼は髪をブラシで前に撫でつけ、アストリッド・キルヒャー
(Astrid Kirchherr)
がスチュアートに奨めたヘアスタイルにしていた。
ユルゲンは髪を平らに撫でつけて前に垂らしていた。僕らもその髪型を気に入った。僕らは彼の場所に行き、彼は僕らの髪をカットして、ぶった切ったがより正確かもしれない、同じ髪型にした。 | |
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ジョン・レノン (1963) |
キルヒャーは、ジャン・コクトー (Jean Cocteau)
の1959年の映画『オルフェの遺言 (Le Testament d'Orphée)』に出演したジャン・マレー
(Jean Marais)
からこのヘアスタイルをパクっていた。フォルマーはホテルの自分の部屋
(Hotel Left Bank) でジョンとポールの髪をカットする。
彼は流行の最先端を行くヘアスタイルをしていた。僕らは「僕らも君みたいにしてくれない?」と言った。僕らは休暇中だ、どうってことない。ケープやパンタロンも買ったし、行動が大胆になっていた。彼は言った「だめだめ、僕はロッカーの君たちが好きなんだ。今のままがいいよ。」だけど僕らはどうしてもと頼み込んだから、彼も「わかったよ」となった。けど彼とまったく同じにはしなかった。
彼のはもっと片側に偏っていて、長髪のヒトラーみたいな感じだった。僕らもそれが良かったんだけど、まあアクシデントだね。僕らは彼のホテルの部屋に座って、そこで彼は『ビートル・カット (Beatle cut)』を誕生させたというわけだ。 その週の残りは、僕らはまるでパリの実存主義者だった。ジャン・ポール・サルトル (Jean Paul Sartre) は関係無かった。悟りだった。「他には何もない。」-僕はこの週に学んだことから小説を書けただろうと思う-「すべては我が内に存する。我はもはや全能なり。」 リヴァプールに帰るとみんな言った「髪型がおかしくなっちゃったね。」僕は返して「いや、これは新しいスタイルなんだ。」 実際僕らは元のスタイルに戻そうとしたんだけど、そうは行かなかった。それは前に垂れたまま戻らなくなった。そしてそれが好評を得たんだ。僕らはヘアスタイルなんて本当はどうでも良かったけど、あれは好都合だったね。だって何も手入れはいらないし、洗ってタオルでふいて掻き上げて振れば、それで出来上がりだったからね。みんなあのヘアスタイルは僕らが始めたと思ってたけど、こんなふうにして『マッシュルーム・スタイル』になったんだ。 |
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ポール・マッカートニー |