1960年 (昭和35年) 5月28日 土曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
ライヴ演奏:レスキュー・ホール/ピーターヘッド |
ジョニー・ジェントル (Johnny Gentle)
とスコットランドを巡るシルバー・ビートルズ
(The Silver
Beetles) の7日間のツアーの最終日は、ピーターヘッド (Peterhead)
のレスキュー・ホール (Rescue Hall) での公演だった。
この翌日の29日に彼らはリヴァプールに戻るが、出発前よりもっと貧乏になっていた。しかしツアーでライブ演奏したという価値ある経験も得た。
リヴァプールに帰ってしばらくはバックバンドをやった。僕らはまだシルバー・ビートルズ
でやっていた。その頃の僕らのポスターは "The
Silver Beetles" と、ダブルの "e"
だったと思うよ。でも "Silver"
は余分だと思い始めていた。ジョンはもう「ロング・ジョン・シルバー
(Long John
Silver)」の名に興味はなかったし、僕も「ポール・ラモーン
(Paul
Ramon)」の名にうんざりしてた。あれは僕の人生のエキゾチックな一瞬にすぎなかった。
僕らはいろんな人のバックバンドをやった。他人の歌を学んでプロの意識を持てたいい時期だった。時々はきついこともあった。というのは僕らはあまり良く和音 (chords) を知らなかったんだ。彼らは僕らに楽譜を投げつけてきた。僕らは「この歌詞知ってる?そのコード知ってる?」と聞いたものだった。 僕らはすごくウブで世間知らずだった。あるミュージシャンと一緒にいる少女をその奥さんだと思っていて、いつも「**さんの奥さん」と呼んでいた。彼女が愛人とわかるまでには何年もかかったよ。 |
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ポール・マッカートニー |
ジョニー・ジェントルはプロモーターのラリー・パーンズ
(Larry Parnes)
に、シルバー・ビートルズは良かったと話している。ジョニーは次のスコットランド・ツアーでもバックをやってほしいと望んだが、彼らはハンブルグにいたため、代わりにカス&ザ・カサノバス
(Cass & the Cassanovas) を使った。
ジョニーはほとんど毎晩電話してきて「スコットランドに来て彼らを見ろよ。僕のパートを彼らにやらせてみたんだけど、彼らは僕よりずっとうまくやるんだ。」彼はとても正直だった。もし私がスコットランドに行ってたら、ビートルズのメンバーとしてのジョニー・ジェントルを見ることになっただろう、と私はいつも言ってたよ。 | |
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ラリー・パーンズ |
ジョニー・ジェントルは他にもう1度だけビートルズと共演している。1960年7月2日、彼はジャカランダ・コーヒー・バー
(Jacaranda Coffee Bar)
に立ち寄ったが、ビートルズのマネージャーのアラン・ウィリアムズ
(Allan Williams) は、彼らはリスカード (Liscard)
のグローブナーダンスホール (Grosvenor Ballroom)
で演奏していると彼に告げる。ジョニーはそこに行って、ステージで彼らと数曲ジョイントした。
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