1945年 (昭和20年) 6月19日 火曜 | 前の記事 | 目次 | 次の記事 | |
ジョンの種違いの妹ヴィクトリア 誕生 |
夫のアルフが海に出ている間、ジュリア・レノンは息子のジョンとリヴァプール・ウールトン・アラートン通り120a番地
(120a Allerton Road in Woolton, Liverpool) の通称「酪農小屋 (Dairy
Cottage)」と呼ばれる家に住んだ。この小屋の持ち主はジュリアの姉ミミ
(Mimi) の夫、ジョージ・スミス (George Smith) である。
アルフは頻繁に海に出ていないものだから、ジュリアは度々ダンスホールで夜を過した。1942年、彼女はウェールズ人兵タフィ・ウィリアムズ (Taffy Williams) と知り合う。彼はリヴァプールのモスリー・ヒル (Mossley Hill) にある兵舎に駐在していた。
1944年の後半にジュリアはウィリアムズによって妊娠する (当初は見知らぬ兵隊にレイプされたと言っていた)。ウィリアムズは人妻とその息子と一緒にいる恥を被りたくないとして、ジュリアがジョンを手放さないならば彼女と一緒に住みたくないと拒んだ。しかしジュリアもそれを承諾しなかったので、この二人の関係は終わる。
1944年にアルフがリヴァプールにもどった時、彼はこれまで通りジュリアとジョン、そして生まれて来る赤ん坊の面倒も見ると申し出る。しかしジュリアは私たち夫婦の関係も終わったとアルフに告げた。
ジュリアは1945年6月19日、ノース・モスリー・ヒル通り (North Mossley Hill Road)にある 救世軍エルムズウッド病院 (Salvation Army's Elmswood Infirmary) で女児を生み、ヴィクトリア・エリザベス (Victoria Elizabeth) と名付けられる。
ジュリアの実家からの強い圧力により、ヴィクトリアはノルウェー救世軍の大佐ペダー・ペダーセン (Peder Pedersen) とその妻マーガレット (Margaret) のもとに養子に出される。その子はイングリッド・マリー・ペダーセン (Ingrid Marie Pedersen) と改名され、ノルウェーで育てられた。
ジョンはこの種違いの妹の存在を知らされたことはなかった。しかしイングリッドは1966年に看護婦をしていた時、彼女には有名人の兄弟がいたことを知る。彼女が婚姻のための出生証明書を作成していた時に、自分とビートルズの一人が親族関係にあることを発見したのである。
私はジョンの妹だと気づいた後、持っていたジョンの記事や写真の切抜きをありったけ集めて寝室の引出しに隠しました。両親に対する裏切りだと感じたからです。それでももし両親が見つけた場合を思うと気が気ではありませんでした。 私は養母が生きているうちはジョンとコンタクトできないと思いました。私は彼女に尋常ではない義理を感じていたからです。彼女は私が父 (タフィ・ウィリアムズ) の娘だと知っていたと思います。それでいて父とジュリアの情事に対する憤りを表に出すこと無く、私を自分の娘として受け入れてくれたのです。 わたしは養母がタンスの中のブリキ缶に私的な書類を隠しているのを知っていました。だれもいない時、震えながら私はそれを開けました。リヴァプールの裁判所が発行した黄ばんだボロボロの養子縁組証がありました。それには私のフルネーム「Lillian Ingrid Maria Pedersen」と生年月日がかかれていました。そしてその上には私が探し求めていた3語「Victoria Elizabeth Lennon」という私の出生時の名前があったのです。私の実母の名「Julia Lennon」もありました。私は泣き出しました。 |
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イングリッド・ペダーセン
(2000年) |
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