1961年 (昭和36年) 7月6日 木曜   前の記事 目次 次の記事
 マージー・ビート 創刊

  
この日、リヴァプール美術大学 (Liverpool College of Art) の学生、ビル・ハリー (Bill Harry) がマージー・ビート紙 (Mersey Beat magazine) の創刊号を発行した。
  

  

初め自分でデザインしたジャズ雑誌で購読者を得ようとしたんだが、僕はビートルズに深くハマり込んでしまったんで、代わりにロックンロール雑誌をやることに決めた。新聞を始めるために50ポンドを借り、『マージー・ビート』という雑誌名を考えた。それがマージービートという音楽ジャンルが公に始まった瞬間だった。それ以前には特定の名前はなかったんだ。僕が『マージー・ビート』を発行し始めた時、ボブ・ウーラー (Bob Wooler) と一緒にリヴァプールからサウスポート (Southport)、また川の向こう側まで含めて、400以上のバンドをリストアップした。英国はおろか、おそらく世界中を探してもこんな場所は他に無いと思った。それはちょうど世紀の変わり目にジャズが始まった頃のニュー・オーリンズ (New Orleans) のようだった。

 

ビル・ハリー
「The Cavern」スペンサー・レイ

  
隔週発行のこの雑誌は、リヴァプールの音楽シーンを知る上で、たちまちファン必読の雑誌となり、ビートルズのその紙面への登場はおびただしい数に上る。ハリーはジョンとスチュアートの友人であり明敏な記者であった。しかしリヴァプールの音楽シーンの発芽期に、彼が全国紙に対して行ったアピールは無駄に終わっていた。
  

その頃芽を出そうとしてた何かを報道したいと出版社にアピールしたが、何の反応も無かったので、自分でやろうと決めた。ジャズ雑誌をやめて、地元のロックンロール・シーンについて書いたんだ。

すでにデザインの国家資格をもらってはいたが、僕はまだ美術大学にいた。新グラフィック・デザイン・コースの最初の学生となって、後には上級都市設計の奨学金も勝ち取った。ジョン・レノンも僕と一緒にグラフィック・アート学部に入りたがっていたが、講師のロイ・シャープ (Roy Sharpe) は彼を受け入れなかった。

 

ビル・ハリー

  
マージー・ビートは50ポンドの借入金でスタートした。ハリーのガールフレンド (後には妻) のバージニア (Virginia) は、このプロジェクト発進の鍵となる役割を果たした。
  

資金の問題が残っていた。しかしジャカランダ (Jacaranda) で知り合ったディック・マシューズ (Dick Matthews) が、ジム・アンダーソン (Jim Anderson) を紹介してくれて、彼が僕とバージニアにプロジェクト発進に必要な50ポンドを貸してくれた。その頃までに僕は、2週間に1回の発行で、内容は100%マージーサイド地域の音楽情報、それに2週間の間に開催されるすべての音楽イベントの出演者の情報を載せる、という指針を決定していた。

僕を真に邁進させ、僕の頭の中の幻想を現実のものにしたのはバージニアの支えだった。彼女はこのプロジェクトのためにフルタイムの仕事をあきらめた。ジムはレンショウ通り (Renshaw Street) の酒屋の上に事務所を見つけてくれた。ジム、ディック、バージニアと僕は、ジムが提供してくれたタイプライターと机と2つの椅子を持って小さな屋根裏の事務所に入った。ジムはまた自前のカメラを持ち出して、記事のために地元の音楽シーンを撮ると約束してくれた。

ジャカランダにジョンとスチュアートと座り、彼らに進展状況を話した。その時彼らは大学を卒業していて、ドイツに行こうとしていた頃だった。僕はジョンに、創刊号に載せるためにビートルズの伝記を書いてくれないかと頼んだ。ビートルズがドイツから帰ってきた後、ジョンは他が真似できない彼独特のスタイルで書いたビートルズの伝記を僕にくれた。それを僕は「ビートルズの怪しい起源に関する、ジョン・レノンの自筆」と題した。

 

ビル・ハリー

  
ジョンが書いたビートルズの伝記は、マージー・ビート創刊号の2ページ目に掲載された。ハリーは一文字も改変することなく、そのままそれを載せている。
  

Being A Short Diversion On The Dubious Origins Of Beatles
Translated From the John Lennon

Once upon a time there were three little boys called John, George and Paul, by name christened. They decided to get together because they were the getting together type. When they were together they wondered what for after all, what for? So all of a sudden they grew guitars and fashioned a noise. Funnily enough, no one was interested, least of all the three little men. So-o-o-o on discovering a fourth little even littler man called Stuart Sutcliffe running about them they said, quite 'Sonny get a bass guitar and you will be alright' and he did - but he wasn't alright because he couldn't play it. So they sat on him with comfort 'til he could play. Still there was no beat, and a kindly old man said, quite 'Thou hast not drums!' We had no drums! they coffed. So a series of drums came and went and came.
Suddenly, in Scotland, touring with Johnny Gentle, the group (called the Beatles called) discovered they had not a very nice sound - because they had no amplifiers. They got some.

Many people ask what are Beatles? Why Beatles? Ugh, Beatles, how did the name arrive? So we will tell you. It came in a vision - a man appeared on a flaming pie and said unto them 'From this day on you are Beatles with an 'A'. Thank you, mister man, they said, thanking him.

And then a man with a beard cut off said - will you go to Germany (Hamburg) and play mighty rock for the peasants for money? And we said we would play mighty anything for money.

But before we could go we had to grow a drummer, so we grew one in West Derby in a club called Some Casbah and his trouble was Pete Best. we called 'Hello Pete, come off to Germany!' 'Yes!' Zooooom. After a few months, Peter and Paul (who is called McArtrey, son of Jim McArtrey, his father) lit a Kino (cinema) and the German police said 'Bad Beatles, you must go home and light your English cinemas'. Zooooom, half a group. But before even this, the Gestapo had taken my friend little George Harrison (of speke) away because he was only twelve and too young to vote in Germany; but after two months in England he grew eighteen and the Gestapoes said 'you can come'. So suddenly all back in Liverpool Village were many groups playing in grey suits and Jim said 'Why have you no grey suits?' 'We don't like them, Jim' we said, speaking to Jim.

After playing in the clubs a bit, everyone said 'Go to Germany!' So we are. Zooooom Stuart gone. Zoom zoom John (of Woolton) George (of Speke) Peter and Paul zoom zoom. All of them gone. Thank you club members, from John and George (what are friends).

昔々、ジョン、ポール、ジョージという名の3人の少年がいました。彼らは一緒にやっていくことにしました。なぜなら3人とも一緒にやるのが好きなタイプだったからです。そうしているうちに、「だけど何のために一緒にいるんだろう?何のため?」と思うようになりました。すると突然ギターが生えてきて、変な音を出し始めたのです。だけど誰もこの3人に興味を持ちませんでした。変ですねえ。しばらくして4人目の仲間が見つかりました。3人よりもっと小さなスチュアート・サトクリフと呼ばれる少年でした。彼は3人の近くを走り回っていたので、3人は言いました「坊や、君はベースギターを手に入れなさい。そうすればきっとうまく行くでしょう。」彼はその通りにしました。だけど彼はそれを弾くことができません。3人は弾けるようになるまで、彼を優しく踏んづけてあげました。しかしまだビートがありません。親切なおじいさんが「汝らはドラムを持たず!」と言いました。彼らは正直に「僕らはドラムを持っていません!」と告白しました。するとどうでしょう、次から次へとドラムが来ては去り、また来ては去って行きました。

ジョニー・ジェントルとスコットランドを旅していたこのグループ (「ビートルズが呼んだもの」と呼ばれた) は、ある日突然、自分たちはあまり良い音を出していないことに気づきます。アンプを持ってなかったからです。それで彼らは少しだけ手に入れました。

多くの人はビートルズとは何かと尋ねます。なぜビートルズなのかと。ああビートルズ、その名はどこから来たのか。教えましょう。それは幻の中から来たのです。燃えているパイの上に男が現れ、「この日より汝らは 'a' の文字を持つビートルズ (Beatles) である。」と彼らに言ったのです。彼らは感謝して「ありがとう、男さん。」と言いました。

そしてその後、あごひげを剃り落とした男が「ドイツ (ハンブルグ) に行って、農民に強力なロックをやって金を稼ぐか?」と言いました。僕らは言いました「金のためならどんな強力なやつでもやります。」

けれども行く前にドラマーを育てなければなりません。だからウェスト・ダービーのカスバとかいうクラブに1つ育てました。その骨折りの結晶がピート・ベストでした。「やあピート、ドイツに来いよ!」と呼びかけると、「はい!」  (ブーン)  数カ月後、ピーターとポール (マッカートニー、彼の父はジム・マッカートニーと言う) は映画館に火を着けます。ドイツのおまわりさんは言いました「悪いビートルズだ。家に帰ってイギリスの映画館を燃やしなさい。」  (ブーン)  グループは半分になりました。でもこれよりも前にゲシュタポは、幼い (スピークの)ジョージ・ハリスンを僕から遠ざけました。なぜかというと、彼はたった12歳だったのでドイツの選挙に行けなかったからでした。でも2ヶ月後に彼は18歳になって、ゲシュタポたちは「来てもいいよ」と言いました。みんな突然リヴァプール村に帰されると、たくさんのグループがねずみ色の背広を着て演奏していました。ジムは「なんでお前たちはねずみ色の背広を持っていないんだ?」と言いました。「僕らはあんなの好きじゃないんだよ、ジム」と言いました。

クラブで少し演奏した後、みんなが「ドイツへ行こう!」と言いました。そうしましょう。 (ブーン) まずスチュアートが行きました。 (ブーン)(ブーン)  (ウールトンの)ジョン、 (スピークの)ジョージ、ピーター、ポール (ブーン)(ブーン) みんな行っちゃいました。
クラブのみんな、ありがとう!  (友だちの) ジョンとジョージより。

 

ジョン・レノン
「Mersey Beat」創刊号

  
その方針と内容が決まった時、ハリーはその雑誌に名前を付けなければならなかった。
ある日の早朝、霊感が彼を打つ。
  

朝の2時頃、僕は一人で事務所に座って新雑誌の名前を考えようとしていた。マージーサイドの全域、リヴァプール、ウィラル (Wirral)、サウスポート (Southport)、クロスビー (Crosby)、セント・へレンズ (St. Helens)、ウィッドネス (Widnes)、ウォリントン (Warrington) などなどを網羅することを決めた時、警官の地域巡回 (policeman's beat) が突然思い浮かんだ。警官がそうした地域の地図の上をを歩きまわるイメージ、と同時に「マージー・ビート (Mersey Beat)」と言う名が僕の頭に湧いて来たんだ。

 

ビル・ハリー

  
マージー・ビート誌の創刊号の一面には、ウィッドネス・ウィークリー・ニュース (Widnes Weekly News) のカメラマンがリヴァプールのリアルト (Rialto) で撮影したジーン・ヴィンセント (Gene Vincent) の写真がトップに掲載された。この創刊第一号はよく売れ、ハリーの期待を大きく上回った。
  

マージー・ビートの反響は、地方においてはまさに驚異と言えるものだった。創刊第一号の5,000部はすべて完売した。3大卸売店のWHスミス (WH Smith)、ブラックバーンズ (Blackburn's)、コンランズ (Conlan's) が販売を引き受けた。また僕は地元の大規模店、楽器店、レコード店に加えて、個人的に2ダースほどの新聞販売店にもコピーを配った。

ノース・エンド・ミュージック・ストア (NEMS) では僕が経営者に面会を求めたら、ブライアン・エプスタインがオフィスから降りてきた。僕が出版物を見せると、彼は12部を引き受けてくれた。その後すぐに電話で、瞬く間に売り切れて驚いたと言ってきた。彼のオーダー数はどんどん増えていった。第2号に対して彼は12ダースの予約注文を入れた。1つの販売店が1つの出版物に対する注文としては信じがたいほどの数量だ。

 

ビル・ハリー

  

  

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